トップページ  > 続・発見!三重の歴史 > 大仕事リアルに記す―和子入内を仲介 高虎の書状

大仕事リアルに記す―和子入内を仲介 高虎の書状


桑名家文書 百々太郎兵衛宛藤堂高虎判物(県庁蔵)

桑名家文書 百々太郎兵衛宛藤堂高虎判物(県庁蔵)


 本年は、津初代藩主藤堂高虎の伊賀・伊勢国への入封400年にあたる。津市や伊賀市では、行政機関をはじめ三重大学や民間団体でも、それを記念するさまざまな取組が企画されている。県史編さんグループにおいても、これら各機関から資料提供などの協力依頼があり、それぞれ対応している。
高虎は、特に城普請の達人として、江戸城をはじめ数々の城の縄張を行っているが、高虎の才能はそれだけではなく、江戸幕府と朝廷とを仲介する役目も果たしている。その最たる例が、2代将軍徳川秀忠の娘和子の朝廷への入内(じゅだい)、すなわち後水尾天皇との婚礼の仲介である。その際の藤堂高虎書状が、かつて県に寄贈された桑名家文書中に見られる。
  その書状は、高虎が家臣の百々(どど)太郎兵衛あてに差し出したもので、既に1993(平成5)年に発行した『三重県史』資料編に収録されている。しかしながら、その段階では十分な検討や年代比定がなされていなかった。そのため、今回は、その書状の内容を詳しく紹介してみることにした。
  まず、書状の書き出し部分には、5月11日付けの書状が到来し見たことを記し、次に3つの指示を出した。1条目では、4・5月の扶持(給米)は少し払いがあるが、今は蔵の封を切らないようにし、当月末にはどのようにするか申し遣わすとしている。2条目では、女御様の上洛に関わる伝馬人足のことを水谷九左衛門に次第を申し付けることを命じている。3条目は、久右衛門尉が煩(わずら)っているので、代わりに業務を行うようにという内容である。そして、尚々書(追伸)には鶴の玉子を割るように申し渡すとあり、日付の下には「いつミ(高虎)」の署名と花押が据えられている。書状の日付は5月12日で、百々からの書状を受けて翌日に書き認めたものである。ただ、いつのことか、書状には年次がない。
  次に、この書状がいつ頃のものなのか、それを検討してみよう。久右衛門尉とは、高虎の家臣で入封直後に伊勢津奉行となった赤尾久右衛門尉と考えられ、久右衛門尉は1620(元和6)年6月に亡くなっている。宛所の百々太郎兵衛は赤尾の死後に津奉行となった人物であり、この煩いというのは久右衛門尉の死去と関係があるかもしれない。また、水谷九左衛門は元和期に幕府の四日市代官で、東海道など街道支配にあたった人物である。さらに、ここに据えられている花押に注目すると、高虎の花押は数種類あるが、この花押は、1606(慶長11)〜20年を中心とした時期に用いられたものである。
そして、「女御様上洛」の女御とは、朝廷に関係する人物であると推測される。そこで、高虎の事績を表した「公室年譜略」で朝廷との関係を確認すると、19年7月頃に「公 将軍家ノ第八姫ヲ 当今後水尾上皇へ入内ノ事ヲ媒(ばい)シ玉フ」とあり、高虎が和子入内に関わったこと、同年9月5日には「将軍家ノ姫君入内ノ事凡事成ル」と、この時期に和子入内に目処(めど)が付いたことがわかる。そして、翌20年6月18日には「将軍家ノ姫君女御入内シ賜フ」とあって、姫君(和子)女御が入内したとの記事が見られる。
  こうしたことから、2条目の「女御」は和子を指し、「上洛」とは伝馬人足準備等の記事も合わせて考えると、和子入内のことである。6月の入内を約1か月後に控えて、東海道の四日市宿を取り締まる代官への念押しを家臣に指示したものと思われ、この書状は1620年の5月12日ということになる。
  前述したように、高虎は和子入内に大きく関与しており、外様大名ながら城普請などを通じて将軍家から絶大な信頼を得て、徳川家側の代表としてこのような大仕事を成し遂げたのである。この書状は、その事実をリアルに示す資料として非常に興味深いものである。今後も、展示なども含めて、いろいろな場面で活用されるであろう。

(県史編さんグループ 藤谷彰)

トップページへ戻る このページの先頭へ戻る