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「大坂の陣」後の藤堂高虎の加増について



 「藤堂32万石」とよく言われるが、当初から32万石ではなかった。まず、藤堂高虎が入封した1608(慶長13)年8月には22万石で、伊賀・伊勢国のほかに、前封地の伊予国(現愛媛県)にも一部所領があった。その後、1614(慶長19)〜15年の「大坂の陣」での活躍などによって5万石が加増された。そして、最終的には1617(元和3)年10月1日付けで32万3950石余になり、所領地の変更や久居藩の分藩はあったが、その石高は幕末まで変わることはなかった。
  本欄89号では、県史編さんグループの所蔵する藤堂高虎文書が第2代将軍秀忠の姫君(和子)入内(じゅだい)に関係するものであることを紹介した。今回も「高虎入封400年」にちなみ、藤堂高虎の話をしてみよう。
  ただ、「大坂の陣」後の加増は、三重郡・鈴鹿郡・安芸郡・一志郡のうちで5万石の領地が宛行(あてが)われているが、この加増の日付については諸説ある。5月28日説・閏6月19日説・8月説などで、これまで、あいまいなままとなっていた。
  しかし、県史編さん事業に伴っていくつかの文書群調査を進める中で、この加増月日を確定できる史料を発見した。その文書群は県立博物館が所蔵する伊藤又五郎家文書である。伊藤又五郎家は津の町年寄を務めた家柄で、この文書群には津藤堂藩の初期の様相が分かる重要な史料が多数含まれており、県立博物館所蔵資料の中でも特筆すべき文書群である。
  それでは、発見した史料(書状)について、詳しく見てみると、「綿屋(伊藤又五郎)が陣中見舞いにやってきた。大樽二、蚫(あわび)五十、鰹十連が到来し満足に思う。国替えもなく、金銀のふんど・知行も拝領したので下々へも知らせるように」とある。その日付は6月5日、「和泉」の署名と花押が据えられている。宛先は津町中である。
  この書状は、年代が記されていないが、「国替えもなく」という文言と包紙にある「大坂御凱陣(がいじん)の節御機嫌窺(うかが)いとして」と記載されていることから1615(元和元)年6月5日のものと推測される。なお、この文書は藤堂高虎の一代記である「高山(こうざん)公(こう)実録(じつろく)」にも〔伊藤又五郎蔵書〕として掲載されているが、そこでは日付が6月15日となっており、なんからの手違いで日付が異なってしまったと思われる。
  さて、史料の後半部分では、「国替えもなく」「御知行拝領」とあり、6月5日時点で高虎の伊勢・伊賀国から他国への移封はなく加増があったことが分かるのである。そうすると、前述した加増月日の閏6月説、8月説はなくなってくる。残る月日は、5月28日となるが、「高山公実録」や藤堂藩初期史料である「公室(こうしつ)年譜(ねんぷ)略(りゃく)」では、この日に彦根の井伊家とともに「金銀の分銅」を賜ったことが記されている。分銅とは、秤で重量を測定する時に用いるおもりや金塊や銀塊のことをあらわすが、「高山公実録」に「金銀の分銅は大坂落城の際に宝蔵の焼け跡にあった多くの金銀を井伊・藤堂両家に下された」とあることから、この場合は金塊や銀塊のこととなる。この分銅については、書状にも「金銀のふんど」を拝領したことが書き記されており、「実録」の記述を裏付ける。
  このように見てくると、この書状にある「国替えもなく、金銀のふんど・知行も拝領した」ことは、同時期であったと思われ、加増月日は5月28日であった可能性が高いのである。
  また、この書状には「国替え」という文言があるが、これは江戸時代の大名の配置替えのことであり、転封・移封ともいう。国替えは、1583(天正11)年以降の豊臣秀吉のころより始まり、徳川氏の三代将軍家光の時代までが最盛期である。大坂陣後も実施されるが、高虎の国替えはなかった。この措置は、伊勢・伊賀地域における高虎の重要性を幕府が認識していたからであろうが、この時期に高虎が国替えを意識していたことをうかがえるものであり、その点でも非常に興味深いものである。

(県史編さんグループ 藤谷彰)

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