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施策、経済面でも先見性―藤堂高虎の入封と領国支配


「津町方への免許状」(三重県立博物館所蔵)

「津町方への免許状」(三重県立博物館所蔵)


 来年(2008年)は、藤堂高虎が伊賀・伊勢国へ入封して400年となる。これに合わせて、三重県内では講演会などのさまざまなイベントが企画され、今年度に実施されるものもある。そこで、今回は、高虎の伊賀・伊勢入国の時期を中心とした領国支配の様相を見てみたい。
高虎は、1608(慶長13)年8月、伊賀一国・伊勢国の一部を宛行(あてが)われ、伊予国(現愛媛県)から入封することとなった。9月下旬に笠置方面から伊賀国の上野城へ入城し、翌月に伊勢国津城へ入城した。入国にあたって、上野城は「天嶮ノ要害」であることから根城(ねじろ)としたが、津城は「四通八達ノ地」、すなわち、道路が各方面に通じていて交通の便が良かったため、「繁盛シ、海路を得タレハ自在ナリ」と、将来の流通拠点となることを見越して居城とした。
そして、伊賀国の名張郡へは父虎高の時代から仕えていた梅原勝右衛門を配し、伊賀入国の惣奉行に矢倉大右衛門、奉行に田中庄兵衛・岸田覚兵衛・石田清兵衛、監察に大嶋右衛門作を命じて支配をさせた。また、伊勢国では、惣奉行として山岡長門、奉行として周参見主馬・赤尾加兵衛、監察に梅原竹雲などを任命して当たらせた。このように、重臣たちを伊賀・伊勢付に分けて配置した。さらに、高虎を慕って伊予国からやってきた「寺院工商」の人たちをも伊賀・伊勢国へ分けて住まわせた。居城のある津には「伊予町」などが形成された。
まず、入国直後の10月2日〜8日にかけて、奉行や家中に対して21か条目を発布し、領国支配、特に村方の支配についての基本方針を示した。一方、町方に対しても、10月8日に津町中に対して高虎の伝馬(てんま)役・酒年貢・麹年貢・紺屋年貢・こんにゃく年貢などの諸役の負担を免除して、商人や職人たちが定住するように優遇し、城下町づくりを推進した。また、伊賀国上野町中へは、11月5日に「上野・名張・阿保」以外での商売禁止の触を出して3町以外の統制をし、3町優遇の政策を展開した。
こうした津・上野町の特権は、11年の城下町建設で更に強められるが、高虎は、大和街道・伊勢街道を整備することによって上野・津城下を結び付け、領国の一体化を図ることで、支配領国の上方流通圏からの一定の自立化を果たそうとしたようである。
また、10月1日付けの家臣あての手紙の中で、領国経営に役立てるために各村落より土地の面積・年貢・耕作者等を調査・報告させる「指(さし)出(だし)」を申し付けて村々の実態を把握することを命じている。その手紙には、「城・国・所柄・知行等別してよく候」と、高虎の新領国に対する好印象も認(したた)められている。
ところで、この指出については、少なからず村落の抵抗があったようで、「磔柱(はりつけばしら)を20本、責め道具を評定所に並べて」吟味を行うなど強硬手段にも出ている。さらに、名張郡の事例であるが、梅原勝右衛門らに対し「物成所務がことのほか遅れているので、支配の1万石を2組に分けて支配し、百姓の人質を取り皆済(かいさい)するように」との指示を出しており、村方支配にあたってかなり強引な側面もあった。一方で、伊賀国の年貢徴収には、前領主筒井氏が行っていた「土免法(どめんほう)(春定法)」という一種の定免法を継続して採用し、地域実情に即した対応も行っている。
  このように、高虎は、2国支配にあたって家臣を伊賀付・伊勢付と分けて住まわせるなど、地域の独自性を持たせつつ実情にあった政策を展開した。また、一つの藩という意識のもとで伊賀・伊勢国の領国支配の一本化も推し進めた。そして、さまざまな施策がうまく機能し、そのときの高虎の施策が功を奏し、その後の津藩政安定化につながっていったと考えられている。その意味で、高虎は、軍事面だけでなく、経営面でも先見性を兼ね備えた武将であったと言える。

(県史編さんグループ 藤谷 彰)

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