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猿楽の金春家と親しく−2通の藤堂高虎文書から


写真 藤堂高虎文書(12月28日付)

写真 藤堂高虎文書(12月28日付)


 県史編さんグループでは、現在、津藩の初代藩主である藤堂高虎の書状2通を所蔵している。昨年度末に発行した『三重県史研究』の第21号の口絵でも取り上げたが、今回はこの高虎文書を中心に紹介しよう。
文書は、いずれも料紙(用紙)を半分に折って文字をしたためた、いわゆる「折紙」を用いた、12月28日付けの金春(こんぱる)八左衛門宛てと、正月4日付けの金春八郎宛てのものである。
  宛所の「金春」とは、大和猿楽四座の一つとして知られる能の金春座のことである。据えられた高虎の花押形の年代などから、「金春八郎」は豊臣秀吉からも寵愛され、当代一流の演者としても名高かった金春安照(1549〜1621)に、また「金春八左衛門」はその子息で、後に別家八左衛門家の祖となった金春安喜(1588〜1661)のことと考えられる。ただ、いずれの文書も、年号を欠いているのが惜しまれる。
では、各文書について見ていこう。
  12月28日付けの文書では、2、3日前に到着した「七郎」がすでに将軍家への「御目見」を済ませたことを報じ、併せて、八左衛門に対しては、正月3ヶ日が過ぎてから出立すること、さらに、以前八郎に下された朱印を持参するよう書き送っている。
1610(慶長15)年、当時の金春座の大夫であった安照の長男金春氏勝が、わずか35歳の若さで死去した。このため、子息七郎重勝が跡を継いだが、幼少であったことから、老齢ながら安照が大夫職を代行することとなった。また、安照は、万一に備え、伝書等の一切を二男の安喜に相伝したとされている。
  本文書の内容から見て、文書中の「七郎」は、金春重勝のことを指すものと考えられる。したがって、本文書の年代は、1610年以降、遅くとも金春八郎安照が死去する1621(元和7)年までのものであると判断される。また、その七郎が将軍家に「御目見」していることや、八郎に下された「朱印」をわざわざ持参するよう指示していることなどから、七郎重勝が大夫職を継承してまだ間のない頃とも考えられる。
次に、正月4日付け文書では、正月の挨拶のために、八左衛門と、八郎からの「音信」がもたらされたことを謝し、さらに八郎の「煩(わずら)い」に対しては、気遣いなく養生するようにと記されている。
  ところで、本文書中には「五日に江戸へ相越候」とある。このことから、高虎はこの時、江戸に在府していたものと考えられる。かつて本文書を紹介した久保文武氏の『藤堂高虎文書の研究』でも指摘されているように、慶長15年から元和7年の間で、高虎が江戸に在府したことが明らかなのは慶長19年だけであることから、本文書もその頃のものと見て間違いないであろう。
  藤堂高虎と金春座との関係については、将軍家を招いて度々催された能に金春大夫の名が頻出することや、高虎の小姓である浅井喜之介・花崎左京が金春大夫から手ほどきを受け、金春大夫とともに数番を演じていることからもうかがい知ることができる。しかし、本文書の場合、特にそれを直接的に示す資料として注目される。中でも、書止めを「かしく」とした金春八左衛門宛ての文書は、高虎と金春安喜とが、個人的に親しかったことをうかがわせる。

(県史編さんグループ 小林秀)

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