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居館主は坂内氏か−多気町笠木館跡について


笠木館跡略測図(三重大学歴史研究会『ふびと』34号より)

笠木館跡略測図(三重大学歴史研究会『ふびと』34号より)


 多気郡多気町笠木(かさぎ)には、平面規模においては県内でも屈指の中世の居館跡が遺されている。
 遺構は、東西約500メートル、南北約400メートルの範囲に及んでいる。その中には、一辺が30メートルほどの規模の方形郭が連なり、それが今なお、40箇所近く確認することができるのである。また、井戸跡も20箇所以上確認されており、非常に大規模な居館であったことがうかがえる。今回は、その居館の主について考察してみよう。
 従来、この居館主については、流布している伊勢国司北畠氏の家臣帳などに見える北畠氏の一門「笠城御所」が当てられてきた。
 北畠氏の一門衆は、近世以降に著述された地誌や軍記物に多く登場する。中でも、坂内・大河内・玉丸・木造・岩内などは当時の史料でも確認できるが、あくまで伝承の域を出ないものも少なくない。「笠城御所」もその一つであり、当時の史料では、「笠城」あるいは「笠木」を号する北畠氏一門は確認できないのである。
しかし、この居館が存続していた中世後期において、この地域にこれほどの規模の居館を構えることができた主体は、伊勢国司として南伊勢を領有していた北畠氏以外には考えられないことも事実である。
 笠木は、古くは「笠服」とも書き、神宮領として「笠服御薗」の名が、関係史料中に見えている。また神宮領を書き挙げた『神鳳鈔(じんぽうしょう)』では、内宮領として「笠服庄」が挙げられている。
 ところで、この「笠服庄」については、室町時代に内宮の一祢宜であった荒木田氏経の記録『氏経卿引付』や『氏経神事記』によると、同じく多気郡内の柳原(現大台町か)とともに、神宮祭主領として見えている。そして、北畠氏一門の坂内具(とも)能(よし)がその地を知行し、1465(寛正6)年には神税を押領したとして、神宮より例年のごとく納めるよう催促されているのである。
坂内氏による笠服庄の神税押領は、その後も続いたようで、1483(文明15)年にも、時の国司北畠政勝の実弟坂内房(ふさ)郷(さと)に対して、神税の催促がなされていることが『内宮引付』に見えている。そして、注目されるのは荒木田氏経宛の坂内氏奉行人中島俊貞の返書に「御所様御在庄」と見えていることである。つまり、このとき「御所様」、すなわち坂内房郷が笠服庄に「御在庄」していたわけであり、この地に坂内氏の居館のあったことを示しているのである。
 以上のことから、笠木の地が北畠氏一門の坂内氏と深く関係していたことは明らかであり、笠木館の居館主として坂内氏を想定することは、現時点で最も妥当ではないかと考えられる。恐らく、織田信長の一代記『信長公記』に、大河内籠城戦の後、北畠具教らが退去したとする「笠木坂内」も、「笠木」と「坂内」(現松阪市)の地名の列挙ではなく、「笠木の坂内」と解釈できるものと考えられる。

(県史編さんグループ 小林 秀)

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