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炉・井戸・石組そろう−野呂氏館跡の蒸風呂遺構


野呂氏館跡で発見された蒸風呂焚き口遺構(『野呂氏館跡発掘調査報告』より)

野呂氏館跡で発見された蒸風呂焚き口遺構(『野呂氏館跡発掘調査報告』より)


 野呂氏館(やかた)跡は、津市芸濃町椋本にあり、安濃川の沖積地を眼下に見下ろす段丘端部に立地する。規模は東西80m× 南北90mほどの方形で、周囲に人家が迫ってはいるが、主槨、堀や土塁など残り具合は良好であった。南は比高10mほどの切り立った崖、東と西は自然の谷で、北には堀と土塁を設け防御施設とした構造の武士館跡である。戦国時代、中勢地域の有力な武将、雲林院氏の家臣であった野呂氏の居館とされるが、詳しいことは不明である。館跡から西方向1・5q先には、主家である雲林院氏の居城跡が残る城山がよく見える。
 1983(昭和58)年に、町道改修に伴い事前の発掘調査が実施された。調査面積は道路幅部分と個人住宅移転部分の2600uで、館跡の中心部から外れた西端部だけの発掘であった。最近、館跡近くを通る機会があったが、驚いたことに調査対象外の館跡中心部まで開発が進んでいた。堀や土塁の痕跡がほとんど残っていない状況で、非常に残念に思った。
 さて、83年の発掘調査は一部分であったが、土塁と堀・石垣・搦(から)め手に続く道と階段、建物礎石・井戸・厠(かわや)、炉など、多くの遺構を検出することができた。とりわけ、蒸風呂の燃焼部と考えられる炉遺構は県内でも初めての発見で、大きな成果を得られた。炉跡の規模は縦2・1m、横1・2mで、地面を60pほど掘り下げて平らな石を敷き詰めていた。周囲を20pほどの石で囲い、北側に炊き口を設ける。天井部は長さ60pほどの長大な石を数本ずつ両側から真中で組み合わせるように立て掛け、隙間には小石をはめ込んであった。石は強い火を受けて、たいへん脆(もろ)くなっていて相当期間使用されたことがわかる。また、四隅に礎石と考えられる30pほどの平らな石を配しており、上屋があったことは間違いない。すぐ南側には、石組の井戸と洗い場と思われる粗い砂を80pほど敷き詰めた方形の石組遺構があった。こうした構造が度会郡玉城町宮古に保存されている蒸風呂に似ていることから、炉・井戸・石組遺構をセットとした蒸風呂遺構との結論が導き出された。その時期は、出土した常滑焼大甕の特徴によって16世紀後半のものと考えられた。
 では、玉城町の蒸風呂とはどのようなものか。同町教育委員会が作成した「文化財石風呂民俗資料指定申請書」の添付報告書から見てみた。この石風呂は、同町宮古に伝わる御頭神事(県指定無形民俗文化財)の際に幹事が精進潔斎するためのもので、まず松材などを焚いて石を焼いた。浴室の床は竹製簀子(すのこ)となっているが、その上に筵(むしろ)を敷き、水をかけて蒸気を発生させたところへ入って発汗させる。言わば、サウナ風呂であった。野呂氏館跡から発見された遺構は、焚き口もあり、炉跡の構造、井戸との組み合わせなど、蒸風呂の要素を満たしていると言える。
 日本人の風呂好きは世界的に有名らしい。どっぷりと湯船につかり、汗を流して疲れをとる。至福の一時である。しかし、元来は「風呂」とは蒸風呂を指し、沸かした湯を浴びることを「湯」として区別していたが、時代が下るにつれて、両者は混同されてしまった。今のような浴槽につかる入浴方法は、江戸時代中頃からと言われる。野呂氏館跡に次ぐ蒸風呂遺構の発見は、県内では現在のところ報告されていないが、各地に残る「風呂」や「湯」という地名や伝承など調べれば風呂に関する情報が得られるかもしれない。

(県史編さんグループ 田中喜久雄)

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