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仏教文化の流れ知る―川原井遺跡出土の浄瓶



 ここに掲げた写真は、川原井遺跡で発見された灰釉(かいゆう)陶器(とうき)の浄(じょう)瓶(へい)である。大きさは高さ約26a、胴部径11aほどである。浄瓶は、方形の土坑(1・4b×0・7b、深さ0・2b)から横に寝かせた状態で出土、長年の土圧で押し潰されることもなくほぼ完全な形で残っていた。10世紀後半の愛知県猿投(さなげ)古窯で製作されたものと推定される。ほかに銅製の椀の一部も見つかったことから、この土坑は平安時代後半以降の墓ではないかと考えられている。
 1978(昭和53)年当時、加佐登町の椎(しい)山川(やまがわ)周辺では、水資源開発公団による椎山川調整池建設とそれに伴う河川改修、さらに、その排土を利用した圃(ほ)場整備事業が同時進行していた。その工事中に奈良時代の瓦が多数見つかったことから、市教育委員会では工事を一時中断して古瓦が出土した付近を中心に約2800平方bの発掘調査を行った。調査の詳細は省くが、河岸段丘上の平坦な部分からは8世紀後半の掘立柱建物跡8棟と竪穴住居跡4棟など、椎山川沿いの崖地からは同時期の瓦窯跡が3基発見された。軒瓦は、伊勢国分尼寺跡で出土したものと同笵(どうはん)であったことから、川原井遺跡は、国分寺造営に関わる工人集団との関係が強く推定されている。
 浄瓶とは仏前に浄水を供える水瓶の一形式である。水瓶は、僧呂の必需品の一つであったことが中国の仏典の中にも「軍持(ぐんじ)(水を入れる壺の意味の漢訳)」という言葉であらわされている。また、遠くガンダーラ仏の持物(じぶつ)に水瓶が描かれていることからも分かるように、西域伝来の仏教文化がやがて中国で開花し、直接あるいは朝鮮半島を経てわが国にもたらされた文物の一つとしてこの水瓶があげられる。法隆寺百済観音像が手にする水瓶は、特に著名であり、正倉院御物や法隆寺などには伝世する水瓶の優品が多い。
 一方、群馬県観音山古墳や京都鞍馬山経塚などからは多くの出土遺物の中に水瓶がある。これらは大陸からもたらされたものと考えられるが、やがて国内でも製作されるようになった。当初は、卵形の胴部に細長い頸が付く長頸壺型が主であったが、頂部に尖(せん)台(だい)という尖った蓋を伴い胴部に注口が付く型があらわれ(このタイプを特に浄瓶という)、さらに取手や長い注口のある型が出るようになった。はじめは銅製品が主流であったが、大量生産が可能となる陶磁器製品も見られるようになった。
 ここで登場するのが猿投古窯である。愛知県豊田市と瀬戸市の境に猿投山(標高629b)周辺の丘陵地帯約20平方`には良質な陶土が産出することから、5世紀から14世紀にかけて古代日本最大の大窯業地帯が形成されてきた。この1000基を優に超える古窯跡が猿投山南西麓古窯跡群(猿投古窯)であり、古墳時代の須恵器生産から8世紀後半に灰釉陶器の生産へ移行することによって大きく発展した。すなわち、釉薬を施した薄手の灰釉陶器は珍重され、中央の官衙跡や大寺院の発掘調査で出土し、やがて地方の遺跡でも発見されるようになる。この時期の猿投窯では、金属器を模した浄瓶などの仏具や中国産の青磁・白磁などを写した灰釉陶器が多く見られるが、これは、中国からの高価な輸入品の代用として使用されたからと考えられている。
 ここに紹介する川原井遺跡の浄瓶は、このような時期のものである。鈴鹿川によって沃野が形成されたこの一帯は古代から重要な地域で、川原井遺跡の対岸にはヤマトタケル伝説で名高い白鳥塚古墳があり、伊勢国分寺・同尼寺が遺跡の東北3・5`、鈴鹿川を見下ろす台地上に建立された。また、南西3`先に伊勢国庁が、西15`には鈴鹿関が造営されている。
 伊勢国分寺建立に関わった集団と浄瓶を埋納した者とでは時期的に200年ほどの隔たりがあって直接の関係はないが、地方官人やそれに連なる在地の有力者層の勢力状況などを考察する上で、川原井遺跡の分析は重要である。

(県史編さんグループ 田中喜久雄)

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