トップページ  > 県史Q&A > 55 鎌井松石の略年譜

55 鎌井松石の略年譜


Q 三重県の植物学の先駆者とされている鎌井松石の略歴が知りたいのですが?

(平成九年八月 県内行政機関)
A 鎌井松石については、文化十三年(一八一六)、河曲郡十日市場村百々川(現鈴鹿市神戸)で生まれ、十五歳のときから一〇年間京都で医学を修行しました。弘化二年(一八四五)、三重郡小山田村へ移住し医を正業とします。大正六年(一九一七)に三重郡教育会が編さん刊行した『三重県三重郡誌』の「人物 学者」の項に紹介されていますが、そのときに鎌井家から提出された資料の控えと思われるほぼ同文の「履歴書」が同家に残されていました。これをもとにして見てみますと、「性磊落にして家計を管せず、中年本草学を嗜み勝地旧跡の探検を好む、故に毎年春夏の交には植物採集の為に山間幽谷を跋渉し、秋冬の交には旧跡名地を踏査し、目に触るゝ所随て模写し、其来歴を究むるを以てこととせり」として「四十余年」続けています。そして、「研究上の疑問は、之を伊藤圭介・山本亡洋・飯沼欲斎等の諸氏に質し、球根を丹波修治・岡田正堅等同好の士と交換」するなどして、本草学・物産学・地誌及び考古学などを「百方研究して自ら楽」しんでいたようです。
 以下、『三重県史』別編(自然)の別冊『影印 三重県博物図稿』の「松石略年譜」を参考にして、主な出来事を記しておきます。
慶応元年 (一八六五) 『本草正譌』三二冊著す。
明治元年 (一八六八) 『千草発蒙』六冊著す。
  三年 (一八七〇) 『神風古誌』一二冊著す。
  五年 (一八七二) 澳国博覧会に伴い、当県管下諸物品取集御用取扱に申し付けられる。
  六年 (一八七三) 三重県管轄伊勢八郡伊賀四郡内の物産悉く取り調べる。
上等御雇に申し付けられ、管内各郡村所産薬品並鉱礦属共取調として巡回申し付けられる。
  七年 (一八七四) 『九重雑誌』一〇冊著す。
  九年 (一八七六) 内国勧業博覧会御用掛に申し付けられ、一志以南志摩全国天造人工物産取調として巡回申し付けられる。
  十年 (一八七七) 『三重県博物図稿 一名三重本草』一冊著す。
 十三年 (一八八〇) 『三重管内博物誌』一六冊著す。
 十五年 (一八八二) 交友社博物会設立に参加する。
 なお、十六年には中風のために床に臥しますが、それでも研究や交友社活動を続け、『三重本草稿』や『三重本草博物地誌』などを著し、二十五年(一八九二)に七十七歳で亡くなりました。

参考文献

三重郡教育会『三重県三重郡誌』全 名著出版復刻 昭和四十八年
『三重県史』別編(自然) 平成八年

史料

史料

トップページへ戻る このページの先頭へ戻る