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29 県内の宗旨改帳


Q 現在では、出生すると、役所に「出生届」を出しますが、江戸時代はどうなっていたのですか。また、史料としてどのようなものがあるのでしょうか。

(平成八年九月 県外個人)
A 江戸時代には、幕府の政策として、個人はどこかの寺院の檀家(自分の帰依している寺を檀那寺という)となっていました。その寺院からは個人の身分証明書に当たる「寺請証文」や「寺送状」などを発行してもらい、各村では個人がどの寺院に所属しているのかを把握し、領主に差し出すために「宗旨(門)改帳」が作成されました。このような仕組みを「寺請制度」いい、幕藩体制を維持するための根幹を担う制度でした。
 この制度により、村々の人口増減を把握することができますが、当時幕府はキリスト教を禁止し、厳しく取り締っており、元来はキリスト教徒ではないことを証明する制度でした。領主にとって、この制度は領民の把握とキリスト教取締りの二つを兼ねていたのです。
 さて、三重県内には、「宗旨改帳」がどれぐらいあるのでしょう。現在のところ実態はわかりませんが、原則として村ごとに毎年作成されるとすれば、その冊数は膨大なものです。例えば度会郡荘村(現二見町)は、神宮領ですが、江戸中期頃から毎年の帳面が残され、桑名藩領の員弁郡千司久連新田(現北勢町)でも、天保六年(一八三六)以降明治二年(一八六九)までのものが確認されています。しかし、こうした例は珍しく、残念なことですが、ほとんどの村ではその他の史料群とともに散逸してしまい、あっても完全とはいきません。また、「宗旨改帳」はあまりにも数量が多く、毎年更新されるといことで「永久保存文書」にはならなかったのかもしれません。いずれにしても、早急な県内の史料所在確認とその保存策が望まれるところです。
 なお、「宗旨改帳」の作成については、藩領によって様相が異なり、時代によっても若干差があるようです。近世の人口史料に詳しい速水 融氏は、尾鷲組大庄屋文書を分析の上、「紀州藩では宗門改帳の作成は子・午の年に限られ、しかも記載される人口は八歳以上に限られる」と指摘され、その六年間の間は「人数増減帳」などを作成しており、これにも注目すべきであるとされています。さらに、津藩は「最初は一年おきで延宝五年(一六六五)以後は四年に一回となり文政二年(一八二一)二月にその調査を毎年行うこととした」(『津市史』第二巻)ようです。
 次に、対象となる年齢ですが、紀州藩の場合は指摘のとおり「八歳以上」がその帳面に記載されましたが、県内の他の藩領では二歳以上の記載が多く見られます。これについては、六年に一度しか「宗旨改帳」を作成しないこととともに、紀州藩の特殊な形態であると考えられています。
 「宗旨改帳」の記載方式は、各藩様々ですが、まず旦那寺を記載し、そのあとに戸主名・年齢・家族名・年齢が続き、総計何名という形式で、最後に各寺院が檀那であることを証明して終わっています。

参考文献

速水融「戸口」『日本古文書学講座』七 近世 雄山閣 昭和五十九年
茂木陽一ほか「近世三重県域における人口動態研究1〜3」『地研年報』創刊号〜第3号 三重短期 大学地域問題総合調査研究室 平成八〜十年

宗門御改帳(天保13年)(菰野町辻昌夫氏蔵)

宗門御改帳(天保13年)(菰野町辻昌夫氏蔵)

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