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25 伊賀街道・大和街道の分岐点


Q 東海道から分岐して奈良方面に行く大和街道と、その大和街道に合流する津から上野までの伊賀街道の概要について、教えてください。また、両街道の分岐点はどこでしょうか。

(平成七年九月 県内個人)
A まず、最初に伊賀街道の概要を見てみましょう。慶長十三年(一六〇八)に伊勢国中部と伊賀国を領して上野城に入封した藤堂高虎が、まもなく津を本城、上野を支城としたため、津から長野峠越えで上野に至る古くからの道を藩の官道として設定したのが、伊賀街道です。
 津城下大門通りの問屋場を起点とし、ここから北進し塔世橋南詰で安濃川沿いに西進して古河を経て八町に入り、武士は津城の伊賀口門(現在の津市役所駐車場南側あたり)から西進し八町松原を経て八町に入ったということから、伊勢(参宮)街道との分岐点は塔世橋の南詰ということになります。
 現在の美里村五百野の三軒茶屋で、参宮街道の月本追分(現三雲町)で分岐し久居を経てきた奈良街道と合流します。それから先は、元来この伊賀越奈良街道で、奈良方面からの伊勢参宮に利用されてきた道です。長野峠を越えて伊賀の大山田を通り、上野城下赤坂町の南口で大和街道に合流しています。街道の伊勢側に片田(現津市)・長野(現美里村)、伊賀側に上阿波(平松)・平田(ともに現大山田村)の四宿があり、全里程一二里余でした。
 次に、大和街道の概要を見てみましよう。加太越奈良道とも言われる大和街道は、鈴鹿郡関宿(現関町)の西はずれにある西の追分で東海道と分岐し、加太越えで伊賀に入り、上野城下を通って島ケ原宿(現島ケ原村)に至り、伊賀と山城の国境を越え笠置(現京都府)を経て奈良へと向かいます。なお、この街道は津藩の官道の第一とされ、『三国地誌』では「東国路」として記載されています。
 お尋ねの伊賀街道と大和街道の追分は、前述したように上野城下の赤坂町ということになりますが、上野城下の中町の札ノ辻で名張街道と分岐し、西端にある「伊賀越えの仇討ち」で有名な鍵屋ノ辻に至ります。
 そして、木津川を渡り、島ケ原に到達しますが、島ケ原には本陣の建物が現存し、数多くの古文書類も残されています。その古文書のうち、「御茶屋預リ御道具控帳古記付書控」いう史料には、文久元年(一八六一)五月にイギリスの初代駐日公使ラザフォード・オールコックの一行が宿泊した記録も見られます。一行は長崎から江戸への帰還途中で、「上野ではわれわれを迎えるに適した家がみな修繕中」(『大君の都−幕末日本滞在記』)だったので、島ケ原宿に泊まったのですが、島ケ原の人たちも随分気を遣い、人足二五〇人・馬三〇疋を用意したと記されています。大和街道に関わって、こんな話もあったのです。

参考文献

オールコック著、山口光朔訳『大君の都−幕末日本滞在記』 岩波文庫 昭和三十七年
三重県教育委員会『大和街道・伊勢別街道・伊賀街道』 昭和五十八年
菊岡繁雄「島ケ原宿の本陣と幕末の往来−岩佐本陣家文書に見る」『三重県史研究』第2号 昭和六 十一年

主要街道略図

主要街道略図

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