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20 津藩と久居藩の職制


Q 津や伊賀国を領有した藤堂藩の家臣について、その職制などはどのようになっていたのですか。また、久居藩は津藩の支藩でしたが、家臣の職制はどうだったのでしょう。

(平成七年九月 県外個人)
A 津藩の家臣団の様子を知るには、その職制や禄制をあらわす「分限帳」などの資料があります。そうした史料をもとに、これまでに職制(組織)図がいくつか作成されています。『三重県地方史研究備要』によれば、津藩の職制は図1のとおりです。これは、寛延四年(一七五一)の序がある『宗国史』を中心に作成したもので、職制も時代に対応して変化しました。江戸時代後期にもなると、新官職が設置され、ますます複雑になっていきました。それに、当時は家格門閥が優先されましたので、その家にあった役職に就くことが多かったようです。
 また、津藩は、藩士だけではなく、普段は農村に居住し、いざというときの予備兵力として無足人という農兵組織を持っていました。無足人は、身分的には農民でしたが、苗字帯刀を許されており、元来は村の有力者だった者が多かったようです。しかし、時代が下るに従い、藩の資金調達のために上納金による無足人の取立てが盛んに行われ、その人数も急激に増えました。これら無足人は、幕末には天誅組騒動・戊辰戦争などの戦闘に駆り出され、藩兵として戦いました。
 次に、久居藩は、寛文九年(一六六九)に津藩の支藩として成立しました。初代藩主は藤堂高通で、五万石を領有しました。その領地となった村々は、伊勢国一志・安濃・奄芸・鈴鹿・河曲・三重郡のほか、山城国相楽郡と大和国添上・山辺・十市・城(式)上・広瀬郡内にありました(「藤影記」)。
 なお、久居藩の職制ですが、『久居市史』によれば、図2のようで、津藩とは異なるところもありました。しかし、津藩の支藩ということもあって、藩の制度や慣習は引き継がれており、これらの職制のほかに無足人制度もありました。さらに、年貢制度や農村に出された触書なども津藩に準じる形だったようです。

参考文献

梅原三千「藤影記」大正十一年 『伊勢久居藩史(藤影記)』
三重県郷土資料刊行会復刻 昭和四十六年
『津市史』第一巻 昭和三十四年
『三重県地方史研究備要』 三重県教職員組合 昭和三十六年
『久居市史』上巻 昭和四十七年
『宗国史』下巻 上野市古文献刊行会翻刻  昭和五十八年

図1 津藩の職制 図2 久居藩の職制

図1 津藩の職制 図2 久居藩の職制

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