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3 壬申の乱と伊賀の古代遺跡


Q 有名な壬申の乱では、大海人皇子が吉野を出て、大和の榛原から伊賀の名張・上野を通り加太越えで伊勢へ入ってから、いち早く鈴鹿関や不破関を固め、伊勢・美濃・尾張の兵を集めたことが大きな勝因であったとされていますが、大海人皇子の道筋にかかわる伊賀の古代遺跡の状況を教えてください。

(平成八年十二月 県内個人)
A まず、『日本書紀』を要約しながら、壬申の乱の経路を見ていきましょう。「天武元年(六七二)六月二十四日、東に入らん」として、大海人皇子一行は吉野を脱出し、大和の莵田の郡衙(榛原)・大野を通って伊賀国に入りました。
 伊賀国では、「夜半に及びて隠の郡に至りて、隠の駅家を焼く──横河に至らんとするに黒雲あり」との記述が最初に出てきます。この隠(名張)の郡衙については、横河が名張川と考えられていますので、名張川を渡る手前(南側)に所在していたことがわかります。名張市中村の観音寺遺跡では、古代の大型掘立柱建物跡が発掘されていて、壬申の乱当時にあったかどうかはともかくとして、ある時期ここに名張の郡衙が置かれていた可能性は高いようです。
 次いで、「即ち急に行して伊賀郡に到りて、伊賀の駅家を焼く。伊賀の中山に逮る」とあります。この伊賀郡衙については、上野市古郡地内に所在していたとされていますが、現在のところは不詳です。ただ、上野市上神戸の高賀遺跡は、街道筋を見下ろす立地の良さと古代の優秀な掘立柱建物跡や円面硯が発掘されていて、郡衙かどうかはわかりませんが、当時の有力な遺跡として注目されます。
 そして、「会明に蕀萩野に至る。暫く駕を停めて進食す。積殖の山口に至り──大山を越えて伊勢の鈴鹿に至る」とあります。すなわち、あけぼのに蕀萩野(上野市荒木)に至りて朝食をとり、伊賀町柘植の山口を経て加太越えで伊勢国へ入ったということです。いずれにしても、壬申の乱の大海人皇子の行程に関連した遺跡は、まだまだ判明していません。今後の調査・研究が期待されるところです。
 最後に、伊賀地内で発掘調査された七世紀後半以降の古代の遺跡について、いくつか紹介しておきます。
 旧名張郡域では、七世紀末頃の法起寺式の伽藍配置をもつ夏見廃寺跡、飛鳥から奈良時代の倉庫群を伴った掘立柱建物群をもつ鴻之巣遺跡などが知られています。また、旧伊賀郡域では、延暦銘の墨書木簡が出土し、平安時代の郡衙が置かれていたようである下郡遺跡、奈良から平安時代を中心とする一大掘立柱建物群をもつ森脇遺跡などが発掘されています。さらに、旧阿拝郡域では、奈良時代の駅家と考えられ、大規模な建物をもつ官舎遺跡、東西約五十m、南北約五十mというほぼ半町四方の規模をもつ伊賀国庁跡などがあります。

参考文献

中貞夫『名張市史』 名張市役所 昭和四十九年
『伊賀町史』 昭和五十四年
『日本の古代遺跡 三重』保育社 平成八年

伊賀地内の7世紀後半以降の発掘主要遺跡

伊賀地内の7世紀後半以降の発掘主要遺跡

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