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1 前方後方墳と「一志の君」


Q 一志郡嬉野町で、遺跡の発掘調査の結果、古墳時代の文字が発見されたということですが、この地域に特徴的な前方後方墳の概要と支配していたと思われる豪族について教えて欲しいのです。

(平成八年二月 報道機関)
A 前方後方墳とは、前方後円墳の後円部が方形をしているもので、全国的には約二二〇例が確認されているだけで、前方後円墳の約十分の一以下の少なさですし、規模も一〇〇m以上のものは九例しかなく、大抵は五〇から六〇mぐらいです。分布状況では島根県の出雲地方や栃木県の那須地方に分布密度が高く、中でも出雲地方東部では約三〇基もの前方後方墳が方墳とともに集中しています。
 現在、三重県では七基の前方後方墳があると言われていますが、そのうちの五基が一志郡嬉野町地内の約五キロm四方内にまとまっていて、きわめて特徴的な在り方をしています。この五基の前方後方墳は、庵ノ門一号墳(全長約三六m)・西山一号墳(全長約四四m)・筒野一号墳(全長約四〇m)・錆山古墳(全長約四七m)・向山古墳(全長約七一m)で、四世紀中頃から五世紀初頭にかけて築造されたものと見られています。特に、筒野古墳は地元で「一志の君塚」とか「君塚」とか呼ばれており、三角縁神獣鏡の二面をはじめ鏡四面や石釧・玉類などが出土しています。また、向山古墳からも内行花文鏡等の鏡とか石釧・筒形石製品などが発見されています。こうした前方後方墳のいくつかは古代の一志郡にいた有力豪族の一つである「一志君」の累代の墓と考える人もいます。
 壱師君(一志君)は、考昭天皇の長男・天押帯日子命を祖とする伝承が『古事記』に見えることから中央とつながりのある氏族が雲出川下流域に移住してきたのではないかと考えられています。また、建砦子を遠祖とする「壱志県造」(『皇太神宮儀式帳』)や穴太足尼を祖とする「市師宿祢」(『天孫本紀』)の名前も見られ、壱志県造は壱師君の官職、市師宿祢は壱師君の改姓したものとし、いずれも同じ一志君の一族を語ったものであろうと言われています。

参考文献

『一志町史』上巻 昭和五十六年
『天花寺山』 一志町・嬉野町遺跡調査会 平成三年
『前方後円墳集成』中部編 山川出版社 平成四年

一志郡の前方後方墳」(「天花寺山」より)

一志郡の前方後方墳」(「天花寺山」より)

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