織田信長が全国を統一しはじめたころ、世の中は、戦(いくさ)に明(あ)け暮(く)れ、盗賊(とうぞく)や追いはぎがうろついとる、ぶっそうな時代でな、あるとき、伊賀(いが)の広瀬(ひろせ)村に、信長の軍勢(ぐんぜい)が攻めこんで来るといううわさが伝わってな、これを知った広瀬の庄屋は、自分らの力ではとうてい信長の軍勢に勝てんと考え、近くの真泥(みどろ)村の庄屋に助けを求めたんやして。真泥の庄屋も、広瀬が滅(ほろ)ぼされれば、次は自分らやと思い、広瀬の庄屋の申し出を受けたんやげな。
真泥の庄屋には娘が一人しかおらんだんで、広瀬の庄屋はお礼に、自分の息子をむこ養子(ようし)にやったんやして。そのとき広瀬の南山と東山の二つの山を持たせてな。こうしとったら、もし信長や他の者が攻めて来ても、真泥が助けてくれるとふんだんやげな。
それから真泥の者たちは、南山や東山へ行っては柴(しば)をつくったり、木をきりだしたりして平和に暮(く)らしとったんやして。
ほやけど数年後のある年のこと、この二つの山がもとで、真泥と広瀬とのあいだに大げんかがおこったんや。それは広瀬の者らが、
「南山と東山は、もともとわしらの山や」
と言いだしたんが原因でな、真泥の者らも、
「あの山は広瀬から真泥へもらったものやから、おれたちの山や」
とゆずらへん。それぞれの地では、毎夜男らが集まって、
「どしたらあの山を自分らのもんにできるか」
と遅うまで相談を重ねたんやして。けどええ考えが出んまま、冬が近づいてきたんや。 |
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広瀬村
今の大山田村広瀬。
信長の軍勢
天正伊賀の乱(1581年)。
真泥村
今の大山田村真泥。
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冬になればどうしても柴や薪(まき)がいるやろ。真泥の者らは争いのために南山や東山へ行かんわけにいかんし、もし行かんかったら、この山を広瀬のものと認(みと)めることになるんで、一戸に一人ずつ出して、南山と東山へ柴をつくりに出かけたんやして。
これを知った広瀬では、山へ行く途中の道に木をきり倒(たお)してじゃまをし、さらにそれをこえて来た者を追っぱらったんやげな。真泥の者らは、突然(とつぜん)おそわれたのでやり返すこともできんと、ほうほうのていで逃(に)げ帰(かえ)ったんやて。
その晩、真泥の男らは集まって、
「もう広瀬のやつらにはがまんでけん。あんなひきょうな手を使いやがって」
とくやしがったんやげな。何としても今日のかたきをとろうと考えこむうちに、だれかが、恐(おそ)ろしいことを言いよった。
「どうや。広瀬から来たよしろうがおるやろう。あいつを殺して、その罪を広瀬のやつらにきせたろやんか」
よしろうは、広瀬の庄屋からむこ養子といっしょに真泥村の庄屋へ連れられてきた下男(げなん)で、耳が不自由やったんで争いもよう知らなんだ。そしてこのたくらみは、数日たったある夜、本当に実行に移されたんやげな。 |
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ほうほうのてい
さんざんな目にあって今にも這(は)いださんばかりにやっとのことで逃げ出すようす。
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みんなが寝(ね)しずまったころ、五~六人が集まってよしろうを連れだし、このあわれな男を殺しよった。そんでその着物のふところに広瀬の庄屋へあてた手紙を入れ、その夜のうちに死体をこっそりと広瀬の庄屋の前まで運んでおいといたんや。
あくる朝、広瀬の者らはその死体を見てびっくりしたんやして。
「どうしたんや。よしろうがこんなところで殺されるなんて……」
よしろうの周りに広瀬の者らが集まり、口々に言いあってるところへ、真泥の者らが二、三人やってきて、
「何ちゅうこっちゃ。よしろうが殺されとるやんか」
「よしろうは、わしらが広瀬の庄屋へ使いにやったんや。朝になっても帰ってこうへんさかい、心配して来たら……」
「あんたら、わしらが山に行くときもさんざんじゃましたうえ、なんでよしろうまで殺すんや」
「そやそや、何が憎(にく)うて、ここまでせなあかんのや」
広瀬の者らはさっぱりわけがわからんかったけど、死体がこうしてある以上どうすることもできんだんやして。それから村同士で話し合われ、南山、東山はもとどおり真泥の山となったんやげな。
ほやけど日がたち、みんなが落ちついてくると、山のために何の罪もないよしろうを殺したことに、真泥の者らも心苦しなってな。そこで真泥の者は、十念寺(じゅうねんじ)によしろうのりっぱ立派な墓を建てて、毎日のようにお参りをしたんや。
それからは問題があると、なっとくのいくまで話し合いをし、争いをさけ、平和な暮らしができるよう心がけたんやげな。 |
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十念寺のよしろう地蔵
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