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鈴鹿市 りゅうがいけ
竜ヶ池
その昔、日照りに苦しむ村のために池を作ろうとしたところ、
人柱が必要になってしまいました。
いったい誰が犠牲になるか…昔の人々の哀しさが伝わってくるお話です。

お話を聞く

 むかし、伊船(いふな)村に大庄屋(おおしょうや)があってな、そこの真弓長左衛門(まゆみちょうざえもん)っちゅう人は、少しでも多くの米がとれて、お百姓(ひゃくしょう)たちの生活が楽にならへんかと考えとる、えらい人やった。
 そのころの伊船村は、水にとぼしい村でな、夏のかんばつともなると稲(いね)が枯(か)れやんように神さまや仏さまに祈(いの)るほかあらへんかった。日照りが何日もつづくと、それこそ空をあおいではため息ばかりついておったのや。
「これでは毎年同じ苦労のくりかえしや。なんとかできへんもんか」
と長左衛門は考えて、考えた末にいくら日照りがつづいても大丈夫(だいじょうぶ)なくらい大きな池をつくらなあかんと決心したんやて。
 それで、亀山の殿(との)さまにかけあってお金を出してもらい、長左衛門は、村人らと池作りにとりかかったんや。それは、谷と谷の門をせきとめて、高い高い堤(つつみ)をつくる大仕事やったんやけど、村人らも自分のため村のためと、一生懸命(いっしょうけんめい)働いたんや。幾月(いくつき)もかかって堤を築き、やっと池ができた日には、長左衛門も村人も大喜びやった。
用語説明
伊船村
現在の鈴鹿市伊船

真弓長左衛門の墓




 ところが、その夜のことや。突然(とつぜん)どしゃぶりの雨がふって、せっかく築いた堤が一夜のうちにくずれさってしもた。
 次の日、堤の前でがっくりと肩(かた)を落とす村人らを長左衛門は根気ようはげまし、再び工事をはじめたんや。雨の日も風の日も働いて、今度は、最初につくったときよりも早く堤を築くことができたというのに、またもや大雨が降って、もうすぐ出来上がるという堤を流し去ってしまったんやて。
「こりゃ、なんかの障(さわ)りかもしれん。うらなってもろたほうがええのとちがうやろか」
ということになり、さっそく占(うらな)い師を呼(よ)んだのやが、堤の跡(あと)をみた占い師は、
「これは水神(みずがみ)様のたたりじゃ。無事に堤を作るには、人柱を立てんならん」
と告げたんや。長左衛門はおどろき、一言も出えへんかった。人柱というても、誰(だれ)もが大切な村の人やのに、おいそれと選べるはずがあらへん。
 
障り
支障。



   
 やがて村人の一人が、
「ここへ一番はじめに弁当を持ってきた者を人柱にしたらどうやろか」
と言い出し、ほかにええ考えもないんでそれで話がまとまったんや。
 昼近くなったころ、一番はじめに弁当を持ってきたのは、お竜(りゅう)という娘(むすめ)やった。お竜はおさないころ村で拾われた子で身寄りもなく、ある家に奉公(ほうこう)しておった。
「お竜じゃ」
「お竜ならええのとちがうか」
 村人らは口々に言いあい、長左衛門がお竜にいきさつを話しとるあいだ、かたずをのんで見守っとった。するとお竜は、
「村のためになるんやったら、喜んでお引き受けします」
といってくれてな。自ら人柱となってくれたんや。
 村人らは、けなげなお竜の思いに報(むく)いようと懸命(けんめい)に働いて、どんな大雨が降っても切れない立派(りっぱ)な堤をつくりあげたんや。
 そして、とうとうできた大池のことを、誰いうとなく「竜ヶ池(りゅうがいけ)」というようになったんやと。それに池にすむ魚にはことごとく背中(せなか)にコブがあって、これは、お竜が弁当を背負(せお)っていた姿(すがた)であるといわれとるんやそうや。
 
竜ヶ池



読み手:伊藤 俊一さん