これは、むかしむかし、大昔のお話や。
坂内川(さかないがわ)のほとりに英太(あがた)の里があってな。その中ほどにりっぱな飯高郡司(いいたかぐんし)の館(やかた)があったそうな。この館には美しいお姫(ひめ)さんが住んでおって、それはそれは心のやさしいお姫さんやった。
お姫さんは、貧しい里人のめんどうを見ておったんやが、病になっても医者もなく薬もなく、ただ苦しんで亡(な)くなって行く姿を見ては、いつも悲しく思っておられたんや。
そして、お姫さんが十八の年になると、奈良の都からお召(め)しがあってな、飯高(いいたか)の采女(うねめ)と呼(よ)ばれて朝廷にお仕えしたそうな。
お姫さんは、いつも一生懸命(いっしょうけんめい)勤(つと)めに励むので、天皇(てんのう)さまも大変気に入っておった。
やがて、長い年月が過ぎ、お姫さんは命婦(みょうぶ)という役になって、名も諸高(もろたか)とかえて、どんどんと出世をしていったそうな。 |
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唐
618~907。隋を滅ぼして李淵が建国。都は長安。
飯高郡
古代~明治29年の郡名。伊勢国十三郡の一つ。郡域は、現在の松阪市の中央部を含む北半分と飯南郡にあたる。
坂内川
松阪市街地西部を貫流する川。高見山地東部の白猪山麓に源を発し、松阪市街地を通って伊勢湾に注ぐ。二級河川。現在は阪内川と表記する。
英太
阪内川中流左岸の平野部に位置する。現松阪市阿形町付近。
郡司
国司の下にあって郡の民政・裁判を司る地方官。
釆女
天皇の食事の世話をした女官。
命婦
五位以上の女性。
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その頃、吉備真備(きびのまきび)という学者が、唐(とう)の国で長らく学問をして、奈良の都へ帰ってきた。その時に、唐のえらい医学の先生から、百ヶ条の薬法をさずかって来たと聞いた諸高は、すぐに真備をたずねたそうな。
そして、
「唐の薬法をさずけてくださいませ。実は、伊勢の田舎の者たちが、薬もなく病で苦しんでおるのがあわれでなりません。なにとぞお力をくださいませ」
と話すと、真備は、
「ならば薬法をさずけましょう。ただ、唐の薬がそのままわが国にきくかどうか、よくためしてから使いなさい」
といって、快く薬法を教えてくれたそうな。 |
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吉備真備
693~775。 717~735年に唐に留学。橘諸兄(たちばなのもろえ)の政権に顧問格(こもんかく)として参画。経史・兵法に通じた学者政治家。
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諸高は大喜びで伊勢の国へ帰り、すぐさま日本の医薬の神さま、少彦名命(すくなひこなのみこと)をまつり、毎日侍女(じじょ)とともに野山に出て、あちらこちらで薬草を取りあつめた。
その薬草については、まず少彦名命の神さまにうかがい、自分にもためしてみてから、里の人々に与(あた)えて飲ませたそうな。
諸高のほどこす薬は、不思議なほどによくきき、飲めば苦しみは無くなる、痛みはとれる、重い病も死なずに治ると大評判となった。
人々は、喜んだの何の、地獄(じごく)の世界から極楽(ごくらく)の世の中へ来たようなうれしさであったそうな。
「薬がいただけるのは、諸高のお姫さまのお陰(かげ)である」
「お薬のおかげで、子どもの命を助(たす)けてもろた」
「お姫さまこそ、ありがたい生き神さまじゃ」
飯高郡の人々は、皆々こんなことを言うて喜びあった。
また、飯高の諸高自身も健康で、四代の天皇さまにつかえ、重い役目をはたし、高い位をいただいたそうな。
やがて年が八十になった時、天皇さまはいろいろな品物をお祝いに下されたが、その年の五月に無くなったと言われておるそうな。 |
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少彦名命
日本神話の神。大国主命(おおくにぬしのみこと)と協力して国造りにあたった。医薬の神、酒造りの神として信仰される。
四代の天皇さま
諸高は、聖武・孝謙・淳仁・光仁の四代の天皇につかえた。
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