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みえの文化びと詳細

地域 中勢地域
名前 紀平 昌伸

作品が飾られる工房で
作品が飾られる工房で

プロフィール  映画看板職人・紀平昌伸さんは、1939年に津市安濃町に生まれました。2021年現在で81歳になりますが、今も現役で作品を制作しています。1955年に15才で映画看板職人に弟子入りして以来、これまでに多くの映画作品の大看板を制作してきました。

 23歳のとき、師事していた職人のもとから独立して「キヒラ工房」を設立しました。1963年です。カラーテレビが普及するきっかけとなった東京オリンピックが1964年のことですから、人々の娯楽といえば、まずは映画だった時代です。紀平さんが活動していた津市内には最盛期で9館もの映画館が並び、1週間ごとに2本立ての映画が入れ替わり上映される時代でした。皆が、テレビのスイッチを入れるように映画館に出かけていました。紀平さんはそのうち3館からの仕事を請け負っていました。映画館の入り口に掲げる看板に加え、街頭の広告に使う看板も制作しました。工房を設立する前後、最も忙しい時期には週に6枚以上の看板を仕上げていました。

 ただ、ご存知のように、テレビの普及などに伴い、次第に映画は娯楽の中心から外れていきました。キヒラ工房の仕事も、百貨店などの広告看板に移行していきます。そんな中でも紀平さんの看板制作の技術は冴えわたり、1982年の「第1回1級技能士全国技能グランプリ」には三重県代表選手として出場して、全国で第3位、銅賞に輝きました。2004年には、映画看板と必ずしも関係のない看板制作技術で、卓越技能賞「現代の名工」を受賞しました。紀平さんの人生から映画看板が遠いものになるかと思われました。

 しかし、2005年に、紀平さんは、「第1回全国1級技能士優秀作品展」に映画の看板を出展し、ふたたび映画の看板を描きためていきます。2007年の「春の黄綬褒章」の受章や、NHKテレビ「東海の技」への出演を経て、2009年、津リージョンプラザで初の個展を開き、映画看板51作品を出品しました。それ以降、精力的に映画看板の作品の展示を行っていきます。

 加えて、紀平さんは、母校の草生小学校や地元の公民館で、映画看板に必須なスキルである似顔絵制作の指導も行っています。また、映画看板の応用で、観光地にある顔出し看板も多数制作しています。

 そして、2012年 封切映画としては43年ぶりに、「アベンジャーズ」の映画看板制作を行い、各所で展示しました。

 2021年、紀平さんは今も精力的に多くの映画看板を描き続けています。


記事  紀平さんは物心がついたときから絵が好きでした。戦中生まれの紀平さんの子ども時代には物資も乏しく、満足な道具もありませんでしたが、台所の窯から集めた消し炭で壁に絵を描いては、ワラ草履で消して、また描くという生活を送っていました。学校の勉強もそっちのけだったそうです。

 紀平さんは中学を出て就職しました。学校で専門的に絵を学ぶことはできませんでした。それでも、紀平さんのお父様は、これほど絵が好きな息子が何とか絵を仕事にできる職場はないかと、町中を駆けずり回って探してくれました。そこで見つけたのが、地元の映画館に所属する看板職人の工房でした。紀平さんはその職人に弟子入りし、映画看板の描き方を学ぶ入り口に立ちました。

 その職人の下で修業し4年目、絵の仕事を任されるようになっていた頃、名古屋で活躍していた映画看板職人が、津の映画館にやってきました。大都市で多くの封切り作品を手掛けていたその職人の技術は、三重の師匠のものと大きな差がありました。三重で3時間はかけて描いていたものを、名古屋の職人は30分で仕上げました。紀平さんは、元の劇場の仕事をこなしながら、名古屋の師匠に技術を教わりました。そこで学んだ技術は一生の宝物になりました。20歳前に学んだ技術で、81歳になった紀平さんは今も仕事をしています。

 映画全盛時代で街中に映画館があり、2本立て3本立てで次々と上映作品が入れ替わる中、複数の館を担当する紀平さんに要求されるスピードを支えたのは、その技術でした。その一つが、下の写真にある、元絵に碁盤の線を引いて、拡大した碁盤の線の上に再現する方法です。



 映画全盛時代の各地の映画看板には、地域ごとに性質の違いがあったと、紀平さんは言います。同じ大都市でも、東京では、美大で洋画を学んだ画家が、生活のために映画看板を描く場合が多くありました。専門的に絵を学んだ人たちの看板は大変上手かったそうです。また、大阪や京都には、日本画の流れをくむ人が多くいました。

 それらに対して、名古屋では、看板制作に特化した職人が多く活躍していました。その画風は大変迫力のあるものでした。三重の師匠に学んでいた頃、紀平さんはよく名古屋に出かけ、映画看板を見て回りました。スケッチして真似しようとしましたが、上手くいきません。名古屋の職人が津に来たのはそんなときです。紀平さんは「これだ!」と膝を打ちました。間近で制作を見て、改めて技術に感動しました。それを何とか自分のものにしたことで、紀平さんが職人として独立する道が開けました。

 映画看板は、美術とは異なる独特の職人の技術で、地域ごとに独自の発展を遂げていました。しかし、大量に制作された映画看板は全て使い捨てで、現在ほとんどが失われています。「タイムマシンがあれば、当時に戻って、また看板を見たい」と、紀平さんはしみじみと語ります。今では記憶がうっすらとある程度になってしまいました。職人の腕はピンからキリまであり、映画館のランクに応じ職人に序列があって、トップどころの人は本当にすごかったのだそうです。

 当時、映画看板職人の中で、紀平さんは一番の若手でした。全盛期の最後に活動をはじめた紀平さんは、いわば、東海地方の映画看板文化の最後の正統継承者です。そして、トップどころと肩を並べる実力者でした。映画館に人を呼べる職人が重宝された時代に、紀平さんが看板を任された館数からも、それがわかります。

 紀平さんの絵は、単なる模写ではありません。映画の一場面や俳優の写真を拡大しただけのものでもありません。たとえば、紀平さんがオードリーヘップバーンを描くとき、彼女の印象的な瞳を実物より強調します。逆に、重要でない部分はぼかします。そうすることで、紀平さんの描くオードリーは、実際のオードリーヘップバーンよりもオードリーヘップバーンになります。そして、その技術を駆使しながら、とても大きな看板を作ります。映画作品や俳優の魅力を、看板を見る人に強く印象付けます。紀平さんの看板は、映画館にたくさんの人を呼んだに違いありません。



 紀平さんは、映画看板という他に同じものがない独特の文化を残すために、今の活動を続けています。それが、映画以外の看板制作で地位を確立したにもかかわらず、再び映画看板を描き始めた理由です。

 昭和の一時代に強烈に花開いた映画看板文化の中で生き抜いてきた証人であり、この令和の世界でその文化を最高の形で再現する紀平さんは、間違いなく、この三重が全国に誇る「映画びと」です。


オードリーヘップバーン
小さな写真(右)にマス目を引いて、大まかに拡大し(中央)、作品に仕上げます(左)
知事
三重県知事にプレゼントしていただいた似顔絵です。
問い合わせ先 株式会社 キヒラ工房
津市中河原西興255
TEL 059−225−7161
FAX 059−225−0952
e-mail cdx28390@par.odn.ne.jp
ホームページ http://kihira-kobo.com
取材機関 三重県環境生活部
文化振興課
〒514−8570
三重県津市広明町13番地
TEL 059−224−2176
FAX 059−224−2408
登録日 令和03年7月14日

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