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みえの文化びと詳細

地域 伊勢・志摩地域
名前 川口 祐二

自宅にて
第21回三重県文化賞・文化大賞を受賞した川口祐二さん

プロフィール  南伊勢町在住のエッセイストで、漁村研究者・海女文化研究者である川口祐二さんは、令和4年現在、32冊の単著を出版しています。さらに共著が15冊あります。共著といっても、大半のページを川口さんが書いた本も多いとか。雑誌等への寄稿は数知れません。

 川口さんの著作の多くは、漁村をテーマにしたものです。全国の漁村を歩き、そこに住む人々から聞き取った話を書籍にまとめてきました。とくに、「海女(あま)さん」と呼ばれる女性漁業従事者からの聞き取りに力を入れ、彼女たちの実像に迫る著書を何冊も刊行しています。

 そして、三重大学で非常勤講師、客員教授、そして特任教授を歴任し、「海女文化」の講座を長く担当して、学術研究の場に聞き取りの成果を提供しました。

 さらに、書籍の出版を通じて知り合った多くの文学者と交流し、その書簡集なども出版しています。また、地元・南伊勢町の人々との文化における交流にも積極的です。町ゆかりの偉人・文学者の顕彰など、地域の文化振興活動の中心となって、町の文化の発展に寄与してきました。

 それらの長年の功績が高く評価され、令和4年、第21回三重県文化賞・文化大賞を受賞しました。南伊勢町だけでなく、南勢地域全体で見ても、三重県の南の地域から初の受賞です。

<略歴>
昭和7年(1932)  三重県宿田曽村(現・南伊勢町)に生まれる
昭和30年(1955) 早稲田大学第一商学部卒業
昭和35年(1960) 旧・南勢町役場に入職
昭和47年(1972) NHK農林水産通信員
昭和49年(1974) 旧・環境庁自然公園指導員
昭和54年(1979) 著書『波の遠近―わたしの自然保護』
昭和57年(1982) 著書『熊野の海は赤い海―漁村・祈りの書』
昭和58年(1983) 三重県文化奨励賞(文化部門)
昭和61年(1986) 著書『とれとれの魚―伊勢の海から』
昭和63年(1988) 論考「渚の55年」(『私の昭和史』掲載)
平成元年(1989) 旧・南勢町教育委員会事務局長を退任
平成2年(1990)  著書『女たちの海―昭和の証言』
平成6年(1994)  記録「昭和を生きた女たち」で労働者文学賞
   同年    三上賞(「三重県の漁業地域における合成洗剤対策について」)
平成7年(1995)  著書『波の音、人の声―昭和を生きた女たち』
   同年     著書『サメを食った話』
平成8年(1996)  著書『貝のうた―26のエッセイ』
平成9年(1997)  著書『潮風の道―海の村の人々の暮らし』
平成12年(2000) 著書『遠く逝く人―佐多稲子さんとの縁』
平成13年(2001) 第10回田尻賞
※田尻賞は、全国の公害反対や環境保全の運動で活躍し「公害Gメン」と呼ばれた故田尻宗昭氏の遺志を継いで、社会的不正義をなくすために創設されたものです。
平成14年(2002) 著書『苦あり楽あり海辺の暮らし』
   同年     「三銀ふるさと三重文化賞」人文部門
平成17年(2005) 著書『石を拭く―渚よ叫べ』
平成18年(2006) 著書『近景・遠景―私の佐多稲子』
平成19年(2007) 著書『甦れ、いのちの海―漁村の暮らし、いま・むかし』
平成20年(2008) 三重大学海女研究会参加
   同年     「みどりの日」自然環境功労者環境大臣表彰(保全活動部門)
   同年     著書『伊勢志摩春秋―ふるさと再発見』
平成21年(2009) 著書『漁村異聞―海辺で暮らす人々の話』
平成27年(2015) 南伊勢町町民文化賞
   同年     著書『明平さんの首―出会いの風景』
平成28年(2016) 著書『海女をたずねて―漁村異聞その4』
平成29年(2017) 斎藤緑雨文化賞
令和元年(2019) 石原圓(円)吉賞特別賞
令和2年(2020)  著書『島へ、浦へ、磯部へ―わが終わりなき旅』
令和4年(2022)  三重県文化賞・文化大賞
   同年     著書『村翁閑話―人の縁、本との出会い』


記事  川口祐二さんは昭和7年に三重県度会郡の旧・宿田曽村(しゅくたそむら)に生まれました。後に旧・南勢町を経て、現・南伊勢町に合併される自治体です。鰹船(かつおぶね)に乗る漁師たちの多い村でした。川口さんの実家は、当時鰹節の製造業を営み、二代目である川口さんの兄の代からは伊勢神宮御用達の業者として、同町で今以上に盛んだった漁業の中で、水産加工業の最前線にいました。

 川口さんは、県立宇治山田高校卒業後、早稲田大学第一商学部に入学しました。実家が商家ゆえの選択です。後に内閣官房長官になる藤波孝生・元衆議院議員が、高校・大学を通じて同窓でした。卒業して数年東京で事業を営んだ後、伊勢湾台風の事後処理や国民年金制度の創設で事務量が大幅に増加した旧・南勢町役場に入職します。

 30代で課長となり、公務員のキャリアを順調に積んでいた川口さんの人生は、業務で交流のあった漁師さんの「海の泡が消えない」という一言で一変しました。昭和40年代、生活排水に含まれる合成洗剤が海の環境を変え、漁業に影響を与え始めていました。川口さんはすぐに行動を開始しました。

 日常の業務をこなしながら、合成洗剤の環境への影響を勉強しました。町長に直談判して、町の事業として合成洗剤の危険性の広報や啓もう活動を行いました。当時はまだ合成洗剤の環境への影響に科学的な結論が出ておらず、川口さんに不安もありましたが、最先端の研究に背中を押され行動を続けました。現在ではもちろん、当時としても、役人として非常に思い切った行動でした。また、多くの漁業従事者の声を集め続けました。

 その後、運動の結果として、メーカーの製品開発が見直され、人々の生活習慣も変化して、合成洗剤の目に見える環境への影響はなくなりました。環境が劇的に改善した実感は川口さんにはありませんが、少なくとも川口さんの人生では、運動への参加が大きな影響を与えました。

 川口さんは環境運動が一段落した後も、同じように漁村を回り、漁民、とくに海女さんから話を聞いています。そこで聞いた話はエッセイなどにまとめられ出版されました。この頃の川口さんは公務員とエッセイストの二足の草鞋を履いています。昭和58年には、エッセイストとして三重県文化奨励賞(文化部門)を受賞しました。

 そんな川口さんに再度転機が訪れます。昭和63年、論文「渚の55年」を投稿し、岩波新書別冊2『私の昭和史』に掲載されたことです。その高い評価がきっかけになり、川口さんは役場を早期退職しました。歩き回って話を聞く執筆スタイルは、片手間では難しいと考えたからでした。文筆業に専念し、新聞や雑誌で執筆をこなしながら、年に1冊のペースで著書を刊行していきます。

 その一方で、郷土の剣豪・愛洲移香斎(あいすいこうさい)を顕彰する資料館「愛洲の館」館長、三重大学教員、各地の講演活動など、地元南伊勢町を中心に、多彩な文化活動を行っています。また、執筆活動の中で知り合った文学者などとの交流も活発に行い、そのことをエッセイ等に仕上げました。川口さんは若い頃から大変な読書家で、自宅の本棚には、処分しても処分しても本が溢れかえります。日本全国の漁村を歩くのに電車旅が多い川口さんのお供は、持ち運びしやすい文庫本や新書です。文学作品とくに古典文学を好み、漁村をテーマにしたエッセイや講演でも、その教養がしばしば顔を出します。

 川口さんの中には様々なチャンネルがあって、それらが相互に影響し合い、川口さんの執筆を動かしてきました。たとえば、合成洗剤問題に取り組んだ際の人脈が、漁村で話を聞く相手を探すことを助けます。それが書籍で形になると、各地の文学者などとの交流につながります。一つの関わりが、また次の聞き取りに結び付いていきます。エッセイ執筆という文学活動、漁村文化調査という学術活動、環境保全の啓もう活動、地域文化の保全活動、講演等は、すべて混然一体です。そんな「出会った人すべてが先生である」と川口さんが言う行動の積み重ねが、文学の功績に対する表彰、学術調査の功績に対する表彰、環境問題での功績に対する表彰、地域活動に対する表彰と、数多くの受賞歴につながりました。

 そして、その多彩なチャンネルの根本は一つです。公務員としても、文筆家として環境問題について啓もうするときも、地域の文化人として人々に接するときも、エッセイストとして漁師さんや海女さんの話す楽しいエピソードを伝えるときも、川口さんには常に、「生まれたときからすぐ側にあった、豊かな漁場を守りたい」という思いがあります。

 令和4年の三重県文化大賞の受賞は、直接には「学術分野」での受賞ですが、受賞理由として、文学、環境、地域、それらの全ての功績が評価されています。

授賞式にて
第21回三重県文化賞授賞式
記念講演にて
地元南伊勢町での受賞記念講演
問い合わせ先  
e-mail  
ホームページ  
取材機関 三重県環境生活部
文化振興課
〒514−8570
三重県津市広明町13番地
TEL 059−224−2176
FAX 059−224−2408
登録日 令和04年8月31日

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