みえの文化びと詳細
地域 | 中勢地域 |
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名前 | 錦かよ子
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プロフィール | 作曲家・錦かよ子さんは、愛知県立芸術大学音楽研究科在学中から、日本音楽コンクール作曲部門で入選、入賞を果たしていました。そして、昭和55年には、文化庁の舞台芸術創作奨励特別賞を受賞します。 その後も、ピアノ曲や声楽曲、室内楽曲、管弦楽曲など、多くの作品を全国各地で発表し、特に、長崎の原子爆弾の悲劇を描いた平成25年のオペラ「いのち」は、県内のほか長崎県や新国立劇場でも上演され、全国的に高い評価を受けています。 また、大学教員時代のミュージカルの創作や公演の指導、また、NHK全国学校音楽コンクール、全日本合唱コンクール三重県予選審査委員を通じ、音楽分野の人材育成に尽力するとともに、県内の小中学校、高等学校の校歌や地元企業の社歌を提供するなど、地域における音楽分野の発展にも貢献しています。 そして、三重オペラ協会理事、三重県文化審議会委員、津市文化振興審議会委員を務め、本県における文化振興の発展に寄与してきました。 平成29年に三重県文化大賞を受賞した錦さんは、令和3年、文部科学大臣による地域文化功労者表彰を受彰しました。 令和3年に三重県で開催される「三重とこわか国体・三重とこわか大会」では、錦さんが作曲した6曲のファンファーレが、開・閉会式などで演奏されます。 ファンファーレはトランペットなどの管楽器で演奏されるのが通常です。しかし、今回はなんと、ファンファーレが人の歌声で演奏されることになっています。この画期的な試みは、錦さんのアイデアです。「管楽器に負けない声量がある人の歌を、ファンファーレにしていけない理由はあるだろうか」という錦さんの思いから実現しました。 作曲家・錦かよ子さんがこれまでに築き上げてきた多くの華々しい功績は、チャンスがあれば絶対に退くことなく、常に新しい地平を開拓しようとする、錦さんのこのような姿勢の賜物です。 (主な功績) 昭和46年 第40回日本音楽コンクール作曲部門入選(室内楽の部) 昭和49年 第43回日本音楽コンクール作曲部門入賞(管弦楽の部) 昭和51年 暁学園短期大学初等教育学科非常勤講師 昭和55年 文化庁舞台芸術創作奨励特別賞 昭和60年 三重県文化審議会委員 昭和62年 津市文化振興審議会委員 平成 7年 三重オペラ協会理事 平成15年 NHK全国学校音楽コンクール三重県予選審査委員 平成18年 津市文化振興審議会委員 平成20年 三重県文化審議会委員 平成23年 皇学館大学教育学部教授 平成24年 全日本合唱コンクール三重県予選審査委員 平成29年 第16回三重県文化賞文化大賞 第49回東海テレビ文化賞 令和3年 地域文化功労者表彰 |
記事 |
作曲家・錦かよ子さんは、大学の作曲科在学中に多くの作曲コンクールに入選・入賞し、早くから才能を開花させました。しかし、その当時から、ひたすら苦しみながら作曲していたそうです。多くの時間を自宅に閉じこもって過ごし、「部屋の中をウロウロして悩んでいた」そうです。 作曲も含め、あらゆるクリエイトは模倣から始まるといわれます。しかし、作曲においては、技術は模倣できても、内容を模倣することは許されません。演奏家には「人から教えてもらう」部分が一定の範囲でありますが、無から有を生み出す作曲では、作品の全てを自分の中から絞り出します。そんな作曲は、一つひとつの作業が本当に苦しいと、錦さんは言います。たとえばベートーベンのように、クラシックの作曲家は皆苦しみの中で作品を生み出していると、錦さんは実感しています。 華やかな結果を出しながら、そんな作曲の苦しさのため、作曲家として一生を費やす決意ができないまま20代を過ごしました。そんな錦さんに転機が訪れます。きっかけはお子さんが生まれたことでした。 約20年間、途中で投げ出すことが許されない子育てに比べれば、作曲なら長くても1年程度で、出来が悪ければ捨てることができるではないかと、錦さんは思いました。その気持ちの切り替えが、30代の錦さんに作曲家として生きていく決意をさせました。 また、お子さんが通う幼稚園から依頼されて、子どもたちが歌うオペレッタを書く機会がありました。オペレッタは「軽歌劇」と訳され、オペラの簡易版といえるものです。お子さんの成長に合わせ、より高いレベルの歌劇を書いていったことで、錦さんの意識が徐々にオペラへと向かいました。その結果、実際にオペラ作品を作曲することに結びつき、斎宮歴史博物館で上演されたオペラ作品「斎王」が制作されました。 その直後、錦さんは1年間ウィーンに留学しました。室内オペラ「斎王」上演により、より本格的な2つのオペラ作品の作曲を依頼されたからです。その1つが、本県開催の国民文化祭で上演されたグランドオペラ「贄の宴(にえのうたげ)」です。本場のオペラを知らずには依頼を受けられないと思った錦さんは、大学教員など、抱えていた仕事を全て棚上げし、40代でまた一から勉強するため旅立ちました。 ウィーンは、音楽が盛んなヨーロッパでも稀有な、毎日オペラが上演される都市でした。そのウィーンで錦さんは週に3日はオペラ観劇をしました。朝7時から行列に並び、学生用に開放される一番安い席を毎回確保しました。留学費を抑える目的もありましたが、それ以上に重要だったのが、その席では観劇しながら勉強できるよう椅子の陰に明かりが点くようになっていたことでした。そんな風に音楽を学ぶ人への用意があるのも、音楽の都ウィーンならではでした。錦さんは、この街で学べるだけのことを学びながら、それ以外の時間は部屋に閉じこもり作曲に費やしました。通常なら1年費やす曲を1か月で書き上げるほど作業に集中し、学生時代のような作曲漬けの毎日を過ごしました。 そこまでして書き上げた「贄の宴」の曲でしたが、帰国後、同作の指揮者・星出豊さんから非常に厳しい評価を受けました。オペラの大家である星出さんの評価は錦さんにも納得できる内容でしたが、納得できるだけに悔しい思いをしました。初のグランドオペラのプレッシャーで体調まで崩しました。それでも何度も曲を書き直し、最終的に、錦さんは星出さんの信頼を勝ち得ました。 その後、星出さんが台本を書いた、原爆の悲劇を描く大作オペラ「いのち」の作曲を依頼されました。ある有名な作曲家は、星出さんから大作を任された錦さんのことを率直に羨んだそうです。このオペラは長崎、三重、東京と上演が続き、オペラ作曲家としての錦さんの名声を確固たるものとしました。 多くの大きな仕事をこなし、今の錦さんは作曲の技術を多く手に入れました。若い時代より技術だけで曲を作れる部分が広がりました。しかし、作曲は今でも苦しいそうです。いつも「もうやめたい」と思うそうです。それでも錦さんには、まだ新しいことに挑戦したいという飢餓感があります。 挑戦したいのは新しい技術ではありません。たとえば最近はコンピュータを使った作曲が盛んですが、錦さんには興味がありません。誰も模倣できない錦さんだけの作曲を、これまでと同じように苦しみながら追究したいと考えています。その方法で、まだ生まれてくるものが自分の中にあると信じています。曲にできるものを自分の中に作り出そうと、今も自分の世界を広げようとしています。 錦さんは「クリエイターは業が深い」と言います。錦さんは、まだ満足していません。 錦かよ子さんが手がけたオペラです。オペラは作曲家の仕事の集大成と呼ばれるのですが、そのオペラをいくつも手がけました。 錦かよ子さんの作曲した楽譜です。錦さんは「よい音楽は楽譜も美しい」と言います。錦さんの譜の美しさには定評があります。 |
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登録日 | 令和03年4月22日 |