阿漕焼 大鉢
資料の概要
資料番号 |
JR0000014 |
資料分野/分類 |
人文系/考歴美/陶磁器 |
資料名 |
阿漕焼 大鉢 |
個別資料名 |
阿漕焼 大鉢 |
国内/国外 |
国内 |
閲覧可否 |
要予約 |
解説
江戸時代中頃に桑名の豪商、沼波弄山(ぬなみろうざん)が小向村(現朝日町)で始めた萬古(ばんこ)焼、また、幕末の森有節による萬古焼の再興は伊勢国内に作陶の機運を高めた。
津では、藩が沼波弄山の弟子瑞牙(ずいが)を招いて安東村(現津市)で作陶を始め、安東焼と呼ばれた。この安東焼から阿漕焼が生まれる。概要は次のとおりだ。
幕末、津藩は倉田久八に命じて安東焼の再興を図った。安東村観音寺から船頭町へ移転し、信楽出身の上島弥兵衛の協力を得て操業した窯は、御納戸(おなんど)焼とも呼ばれた。だが、明治時代に入ると藩の支援が途絶え、常用食器類なども作るようになり、また、阿漕浦に近いため阿漕焼とも呼ばれるようになったが、1890(明治23)年までに廃窯した。
船頭町の窯の終末と重複して贄崎で土手阿漕が操業を始め、このころから「阿漕」の窯印が普遍的に用いられた。97年ごろに解散、その後は会社阿漕(1901~05年)、小島阿漕(05~09年)、上島阿漕(07~22年)、重富阿漕(22~26年)、福森阿漕(31年~現在)と変遷し、明治時代後半以降はいくつもの窯が衰退と復興を繰り返したが、阿漕焼の名は代々受け継がれた。