資料詳細
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 資料番号 | JR0000468-0013008 |
| 資料分野/分類 | 人文系/考歴美/古文書 |
| 資料名 | 伊藤又五郎家文書/いとうまたごろうけもんじょ |
| 個別資料名 | 覚(明和七年六月)/おぼえ |
| 資料形態 | |
| 資料類別 | |
| 形状装丁 | |
| 現状原・改装 | |
| 時代 | |
| 和暦・西暦 | 明和7年6月/1770 |
| 指定等 | |
| 差出(作成者) | |
| 差出(宛先者) | |
| 端書など | |
| 付属品 | |
| 形状 | |
| 料紙 | |
| 綴紐 | |
| 綴目 | |
| 丁数 | |
| 付属品計測値 | |
| 国内/国外 | 国内 |
| 地域 | |
| 備考 | |
| 資料解説 | 1600(慶長5)年8月、関ヶ原の戦いの前哨戦が津城を舞台に繰り広げられた。この年の6月18日、上洛の指示に従わない上杉景勝攻撃のため、徳川家康は伏見を出発、7月24日に下野国(栃木県)小山に到着した。翌25日、家康は石田三成の挙兵を知らされ、いわゆる「小山の評定」で主力を西へ戻すことを決めた。家康軍(東軍)の中には、父・富田一白の後を受けて前年から津城主となっていた信高や伊勢上野城主の分部(わけべ)光嘉がいた。 分部氏が1684(貞享元)年に幕府に提出した「分部御家覚書」によると、小山で信高と光嘉は、津城が心配であるから至急戻るよう、家康から命ぜられた。東海道を上り、三河国(愛知県)吉田(現吉良町)から海路を取り、途中、三成方(西軍)の九鬼氏の攻撃を受けるも白子に上陸、信高は直ちに津城へ、光嘉もほどなく信高に合流した。 籠城戦は武士だけの戦いではなかった。本史料には、又五郎以下津の町人たちが城主信高の不在により城代の指示に従って籠城に加わり、奮戦したことが記されている。一説によると、城内は松坂城(城主・古田重勝)からの援軍や町人を合わせても2000人足らずしかなく、一方の西軍は吉川(きっかわ)広家・長束(なつか)正家・安国寺恵瓊(えけい)・毛利秀元らの軍3万であったという。 戦いは8月23日に始まり、24日に総攻撃が行われた。籠城側の記録、すなわち本史料は後世のものだが、攻めた側には当時の記録がある。吉川家文書の「伊勢国津城合戦手負討死注文」によると、この日2度の合戦があり、吉川広家の手勢だけでも戦死者54名、負傷者161名が出た。傷の原因は、やり・矢・鉄砲の3種で、負傷者の約3分の1にあたる53名がやりによる傷を負っており、城内での接近戦を含む激しい戦いを物語っている。この記録は26日に作成された。また、毛利家文書には何通かの「頸(くび)注文(ちゅうもん)」と題した25日付の報告書があり、安国寺恵瓊提出の47をはじめ、55・37・17など討ち取った首数が記されている。首10・生捕1や首5を取ったが負傷者が6人出たという報告もある。これらの記録から、双方に多くの死傷者が出たことが分かる。 25日のうちに高野山の木食(もくじき)上人の仲介で開城、信高は高田本山専修寺を経て高野山に入った。その後、9月15日の関ヶ原の戦いで家康方が勝利すると、信高は10月に2万石を与えられ、7万石の大名として津城に復帰した。また、光嘉は翌年3月に2万石の知行を得、伊勢上野藩主となった。 この「覚」は、籠城戦から170年を経て記された。記述のすべてをうのみにはできないが、大軍を相手に武士とともに戦った記憶は、子孫に伝えるべきものとして代々語り継がれたのだろう。 |
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