資料詳細
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 文化財名 | 大宝院文書 |
| 附名 | だいほういもんじょ |
| 指定区分 | 県 |
| 指定種別(詳細種別) | 有形文化財/古文書 |
| 指定・登録日 | 2017/02/02 |
| 市町 | 津市 |
| 所在地 | 津市大門32番19号 |
| 所有者 | 大宝院 |
| 員数 | 50通4冊附6点 |
| 構造 | 紙本墨書 |
| 年代 | 室町時代~江戸時代 |
| サイト | |
| 概要 | 当資料は、津市大門に所在する恵日山観音寺(津観音)の本坊である大宝院に伝えられた、室町時代から江戸時代後期にかけての古文書群である。大宝院は、伊勢国奄芸郡窪田(現在の津市大里窪田町)に所在した真言宗寺院・六大院(ろくだいいん)を前身とする。安土桃山時代から江戸時代初期には「六大院」と「大宝院」が併称されるようになった。六大院は、寺伝では醍醐寺報恩院流の長円(ちょうえん)上人が文安元年(1444)に開創、後花園天皇の信任を得て禁裏勅願所になったという。窪田の六大院は当時の文化拠点だったが、その後の兵火で衰退し、天正8年(1580)に現在の観音寺境内に再興された、と伝えられている。 六大院院家関係文書(22通) 六大院の院家に関係する文書である。3点が室町時代のものである。1点は「後花園天皇綸旨(りんじ)」として伝来するが、署名者である甘露寺元長(かんろじもとなが)の在任期間から、後土御門天皇の綸旨と考えられる。1点は後柏原天皇の宸筆(しんぴつ)と伝わる勅額で、打曇(うちぐもり)紙に書かれている。寺伝では永正16(1519)年に賜ったとされる。1点は後奈良天皇綸旨。8点は、元禄4年(1691)から元治元年(1865)にかけての綸旨である。いずれも本紙・礼紙(らいし)・封紙(ふうし)が「うぶ」な状態で残されている。醍醐寺報恩院末寺である旨がこの時期のものには明記されている。 11点は、六大院住持の代替わりにあたっての東坊城(ひがしぼうじょう)家との猶子(ゆうし)関係にかかる契書(ちぎりしょ)と書状である。先述の綸旨とセットになっている。1点は、東坊城家と六大院住持との猶子関係再興を示すもので、以後の契書の根拠となった書状である。永正16年(1519)から享禄2年(1529)までの間に比定できる。 女房奉書(にょうぼうほうしょ、9通、附2点) 8点は、後柏原天皇・後奈良天皇の女房奉書である。六大院から禁裏へ送られた祈祷巻数や茶に対する返礼である。散し書で、それぞれ本紙と裏紙の2紙からなるが、1点のみ裏紙が見当たらない。一方、どの本紙とも折り目・虫損の合わない裏紙が1枚あり、これを附とした。また、これらを収めていた封筒があり、附とした。料紙はいずれも室町時代の女房奉書に特有の上質な楮紙である。 醍醐寺関係文書(12通、附2点) 六大院と醍醐寺、とくに醍醐寺光台院弘賀との関係を示す一群の文書である。六大院開祖の長円が東坊城益長の猶子となり、禁裏へ参内可能となったことが記された文書、尾張真福寺(名古屋市)の真言法統を受け継いでいることを示す文書、弘賀の仲介で醍醐寺の門徒として認められたことなどが記された文書がある。また、天文3年(1534)に東寺で実施された空海七百年忌曼荼羅(まんだら)供養に六大院が参加していたことを示す文書群もある。附は、これらの文書を収めていたと思われる封筒と、封紙まで含め江戸時代に写された文書の2点である。 大宝院寺領関係文書(4冊5通、附1点) 文禄3年(1594)に実施された検地帳が3冊ある。袋綴状に仮綴じされた冊子である。安芸郡窪田地内の屋敷に関するもの、一志郡七栗の中村郷上津前(津市中村町)の田畠に関するもの、その写しがある。附は、検地帳を収めていたと考えられる封筒である。 文書には、諸役を免じた豊臣秀吉の朱印状、関ヶ原合戦以降に既存の権益を追認した書状、江戸時代前期の徳川家による朱印状で、同じく前代の免許を追認したものがある。また、享保6年(1721)の窪田村内戒下村の検地帳もあり、これは文禄3年の検地にかかる範囲を再検地したものと考えられる。 一通文書(2通、附1点) 羽柴(豊臣)秀吉の書状および朱印状で、いずれも大宝坊宛である。天正12(1584)年の小牧長久手合戦に関係すると考えられる。なお、この2通を包んでいた包紙が1点あり、附とした。 当資料は、室町時代の綸旨や女房奉書がまとまっていること、地方寺院と中央(京都)寺院との関係が知れること、江戸時代における住持職就任にあたっての経緯が分かる良質な資料群であること、などが特徴である。当資料の伝来過程は明確であり、学術的・文化的な価値が極めて高い、県内第一級の古文書群である。 |