第82話  汐辛い?話

 斎宮で、いや人間が生きていく上で絶対に必要なものは何でしょう。まず食べ物ですね。食べ物がなければなにかと大変ですが、食べ物にもいろいろな種類があります。たとえば炭水化物の摂取というと、多くの人はお米を連想するでしょうが、お米が無ければパンでもいいわけです。タンパク質だって、平安時代から近代まで、日本にはブタやウシを飼って食べなくても、魚や鳥や豆で補えたわけですから、代用品はいろいろあるわけです。
 ところが基本的な食べ物で絶対に代用がきかないものが一つあります。それは塩です。中国では長らく塩と鉄が経済の根幹で、塩は国家の専売とされていたぐらい、重要な物資だったのです。

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 さて、斎宮跡では、製塩土器と呼ばれる平安時代の遺物が見つかっています。土師質、つまり素焼きの土器で、科学実験で使うシャーレのような、背の低い円筒形をしていて、周壁は一センチ程度の厚さがあるのに、底の部分だけが極めて薄く、ほとんど周壁しか見つからないという変わった土器です。実はこの土器は、鹹水(かんすい)、つまり煮詰めて作った塩分の濃い海水を集めて、さらに下から熱して荒塩を造るための土器ではなかったかと考えられています。古代の塩づくりは藻塩といって、海藻に塩水をかけて乾かし、それを焼いた灰を溶かして濃い塩水を造って、最後に土器で水を蒸発させる土器、とも、ほぼペースト状の粗塩を詰めて焼塩を作るための土器ともいわれています。志摩式製塩土器は、斎宮に限らず、伊勢地域の南部全域や伊賀地域でも確認されていて、濃い塩水を蒸発させる時に使われ、そのままで塩を運搬したのではないかとも考えられています。だから製塩をしていた形跡がない斎宮でも見つかるというわけです。

 この土器は、志摩式と言われますが、実際に志摩の製塩遺跡で発見された実例はほとんどありません。そもそも岩礁の海で平野が少ない志摩では海岸線の遺跡は極めて少なく、製塩のための炉も確認されていますが、実態はまだまだ分からないことが多いのです。しかし古代志摩国で製塩が行われていたことは、奈良の東大寺正倉院宝物の中の文書、いわゆる正倉院文書の中でたまたま残った神亀六(729)年の『志摩国輸庸帳』の断簡(一部のみ残った文書)から明らかです。
 庸とは成人男性を主な対象としてかけられる税で、建前は都などで力役(労働奉仕)10日、その代わりに布(麻布)、米、塩などを一定の量納めることが主な内容でした。志摩国は海に生きる人たちの国なので、庸も塩で納められたのです。
 それによると、志摩では正丁(男性の大人)が932人、次丁が130人で塩149石5斗5升を造り、別に伊勢神宮などの神戸の人たち141人(うち正丁125人)が19石9斗5升を造っていたとあります。
 ところがその神戸の記述からは、塩は3斗入りの「籠」に入れて収納したと読めるのです。この時代の3斗は、奈良時代の1升が現在の0.4升とするのが定説(澤田吾一『奈良時代民政経済の数的研究』)なので、およそ0.72リットルとすれば、3斗は21.6リットルになります。つまり今の一斗缶(18リットル入り)より大きな籠ということで、とても志摩式製塩土器とは考えられません。
 さらにもう一つ大きな疑問は、男だけで製塩ができたのか、ということです。近代の入浜式塩田は塩田浜士と呼ばれる男衆の晴れ舞台でしたが、「安寿と厨子王」の物語のもとになった説教節「さんせう大夫」や、在原行平の恋人になった松風村雨姉妹の伝説で知られるように、遅くとも平安時代以降、いろいろな塩田が定着してからは、海の汐汲みといえば女性の仕事と相場が決まっていました。
 例えば3斗籠いっぱいの塩、21.6リットルの場合、塩の比重が2.16(1mlが2.16g)なので重さが約46.7キログラムとなり、海水1リットルから塩3グラムがとれる(海水の塩の濃度は3パーセント余)として、籠一ついっぱいにするために海水が約1556リットル必要になります。
 だとすれば、塩約150石なら3斗×500=150石なので、海水は1556リットルの500倍、778,000リットル、つまり778キロリットル(淡水だと778トン)も必要になるわけで、しかもその作業を庸の規定通り10日間で行うなんてとても無理です。どう考えても、もっと長い間の準備は必要だったでしょう。つまり、志摩の海人たちは日常生活のために大量の塩を焼いていて、そこから庸の規定分だけ徴収していたと考える方が妥当だと思われます。とすれば、庸として塩を納めるのは男性だけの仕事ではなく、家族総出の生産体制があったものと考えられます。いや、男性が外洋で漁業にいそしんでいたとすれば、女性の肩にかかる割合が大きかったのではないかとも考えられます。

 さて、このように考えると、製塩土器で運ばれる塩は、籠単位で詰められる塩とは用途が違っていたのではないかと思われます。例えば斎王のような貴人のために、あるいは神への捧げものとして用意された特別な塩を容れる器が製塩土器だったのではないかと思えるのです。
 製塩土器の塩は斎宮のために用意された特別な塩、という発想を裏付けるかもしれない記述がもう一つあります。それは、斎宮の総合法令集『延喜斎宮式』に、志摩国は斎宮に毎年15石の塩を税として納入するとしていることです。実は同じ『延喜式』の「主計寮(しゅけいりょう)式」に見える9世紀の志摩国の庸には、塩が見られないのです。つまり延喜式段階では、志摩国が塩を納めるのは斎宮だけだった、ということになります。『志摩国輸庸帳』の記述をもとに考えれば、15石という数字は、伊勢神宮の神戸の課丁130人で庸塩18石3斗7升5合を納めていたのと大差ありません。つまり9世紀の志摩国では100人程度の限られた人が斎宮に納める塩を造っていたことになります。ちなみに斎宮の塩は、尾張からも65石が徴収されており、日常用は尾張の塩、特別用は志摩の塩と見ることができるのです。斎宮跡では9世紀になると製塩土器は減少する傾向にあるようです。こうした志摩の塩生産の変化が、製塩土器の盛衰とも対応しているのかもしれません。
 さて、斎宮に納品される志摩の税は、塩の他はほとんどが海産物、中でもアワビが質量ともに最も重要だったようです。ところが現在、志摩のアワビといえば海女さんが漁るものと相場が決まっています。9世紀の記録である『延喜主税寮式』では志摩国には「潜女」と呼ばれる女性がおり、天皇や中宮の食膳に上がる贄となる海産物を漁っていたことが書かれています。また、志摩国府に近い所から「里女」と書かれた土師器の皿が発見されており、民間の女性へ食事が支給されていたことをうかがわせます(榎村「三重県志摩市兎B遺跡出土「里女」墨書土器について」 『日本歴史』762号 2011年)。伊勢神宮に納めるアワビも、いくら遅くとも鎌倉時代には国崎神戸の海女さんが漁っていたことは確実で、神宮草創期の倭姫命と関係する「おべん」と呼ばれる海女さんの伝承があるくらい、女性と関わりの深いものでした。こうした女性たちが志摩でも塩づくりにも関わっていたのかなあとも思ったりします。

長々と書いてきましたが、斎宮の食事を支えてきた志摩の海産物、特に塩やアワビには、志摩地域の女性たちの労働と深く関わっていたのではないのかなぁ、というのが今回の結論です。海の労働は楽ではありません、汐を組む仕事は辛いもの。汐辛いお話でした。

榎村寛之

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