第81話  あっちにもこっちにも斎宮ゆかりの地

世はインターネット時代です。筆者のような定年間近のおじさんでもスマホが離せなくなっている今日この頃、なにかあれば検索エンジンに頼ることも少なくありません。その中でいろいろ調べている合間に拾った斎宮関係の話題を2つばかり。
 
 @九度山の斎王の墓
 斎王の墓、という伝説に時々当たる事があります。斎宮跡の周辺では明治時代に全国で行われた皇族関係の陵墓調査から、斎宮で亡くなった円融天皇の時代(10世紀)の隆子女王と高倉天皇の時代(12世紀)の惇子内親王の墓が「発見」され、現在、隆子女王の墓は宮内庁により陵墓指定地になっています(指定当時の記録を見ると、円墳で周囲に陪塚〔ばいちょう 親族や部下を埋葬した古墳、の意味〕があった、と記録されていますので、実際は古墳時代後期の群集墳の中の大きなもののようですが)。
ほかに県内には、景行天皇の時代の五百野皇女の墓の伝承地が津市美里町にあります。また、あるいは最後の斎王祥子内親王が尼になって伊勢に来た、という伝承地「比丘尼塚」もいなべ市大安町にあります。
 このように、斎王のお墓の伝承地は、探せば意外にあるのですが、今回そんな一つを和歌山県で見つけました。といっても、九度山町の指定史跡になっているので、見つけたなんて口幅ったいものなのですが。それは斎王制度の終わりから2人目、後醍醐天皇の時代の懽子内親王の墓だというものです。
 この伝承地は、和歌山県伊都郡九度山町丹生川583
にあり、昭和56年に「南朝玉川宮伝承地 観阿弥尼公墓所」として指定を受けています。つまり南朝関係史跡の一つです。
 公的には、懽子内親王は生年が正和4年(1315)で没年が正平一七年(1362)、後醍醐天皇の第二皇女で母は中宮西園寺禧子、元徳2年(1331)に、後醍醐天皇即位後14年にして、鎌倉幕府の要請もあり斎王となったものの、元弘3年(1333)の元弘の変で父が退位、隠岐に配流されたため伊勢に赴くことなく斎王退下。そののち次代の光厳天皇の妃となり、二女を儲けたようです。そして宣政門院の院号を受け、女院となりますが、建武の新政の崩壊後、夫の光厳院の即位はなかったものとされてしまいます。このあたりの事情はなかなか複雑でよくわからないのですが、最終的には妹の最後の斎王、祥子内親王と同じく、保安寺で尼となったようです。

 ところがこの史跡案内の看板(そばにある丹生川小学校という休校になった小学校を紹介するサイトに掲載されてました)はずいぶん違うことを書いているのです。
 それによると、懽子内親王は興国2年(1342=南朝年号)に、京から伊勢に逃れて尼になり、観阿弥と称したとあります(もちろん同名の能楽師(男性)とは別人です)。その後、高野山に登ろうとして女人禁制のため停められ、丹生川に移って庵を結んだといいます。ところが南朝3代目にあたる長慶天皇が天授4年(1378)に丹生川に移り、その翌年に北朝側に攻められた際、天皇の身代わりとして自刃しました、時に年65歳、としているのです。
 この看板に書かれている話は、公的に伝わる没年とは違っています。また1378年に数え65歳とすると、生年は1313年となり、生年も合いません。
 懽子内親王の没年については、江戸時代後期に編纂された『続史愚抄』という歴史書に、『日件録』という文献からの引用として「宣政門院崩」と記されており、その注記に47歳とあります。まあこの本も成立が新しく、出典もよくわからないところがあり、疑問なしというわけでもありません。また長慶天皇も果たして即位していたのかどうか、どこで亡くなってその陵墓はどこか、という基本的なことすら明確には伝わっていなかった天皇で、この時期に丹生川にいたという正式な記録もありません。
 いずれにしても南朝系の天皇や皇族についての資料は極めて乏しく、それが沢山の伝説が造られる素地となっているようです。最初に触れましたように、妹の祥子内親王も尼になって都を離れたという伝承があり、最後の斎王が尼になり各地を歩いた、という伝承が、たとえば熊野比丘尼(熊野信仰を説いて歩く尼姿の女性、放浪する宗教者で熊野山伏の妻であることが多い。芸能民であり後には遊女的な性格も持ったとされる)のような巫女的な性格を持つ尼僧集団によって語られた、なんて可能性もあるのかなぁ、とも思います。何しろ伊勢神宮の遷宮を復活させた16世紀後半の尼僧、慶光院は熊野比丘尼出身なのですから。
観阿弥尼公の墓は丹生川小学校の裏にあるとか、そのうちお詣りしてみようかと思います。

 A愛媛県の斎宮神社
愛媛県南宇和郡愛南町御荘長月にその名も斎宮神社(いつきのみやじんじゃ)というお社があります。愛媛県の南の端、ほとんど高知県との県境、宇和島からバスで一時間余りという遠方です。主祭神は倭姫命なので、斎宮を意識した神社ではあるようです。
私がこの神社の存在に気付いたのは、先日、朝倉泰一郎『伊勢の神宮と国民』(1975年)という本を入手したことによります。著者は神宮にお勤めだった神職さんで、相当な博学の方です、その朝倉氏が「伊勢神宮はなぜ有名なのか」について、極めて面白い指摘をされています。それは、ざっくり言うと、斎宮には全国から様々な物資が、調・庸や生活用品として送られてくる。それは運客夫として全国から多くの人が斎宮に集まるということであり、そこには多くの人々の交流が産まれる。そして彼らを介して、斎宮と斎王が仕える伊勢神宮の知名度が全国的に上がっていった、というものです。実はこの考え方、館内案内をする時の私の説明とよく一致しています。少なくとも平安時代後期までは伊勢神宮は私幣禁断が守られており、われわれ一般人が参詣する機会はない神社だったはずです。その中で多くの国の人が集まる「あの斎宮の主である斎王さまが仕える神社」というのはなるほど雲の上の神社感覚をもたらす、いわばインパクトのあるコピーだったと考えられます。
しかし、『延喜斎宮式』によると、斎宮寮に調・庸を納めるのは常陸国(現在の茨城県)から京に至る東海道・東山道の東国諸国で、山陽・山陰・南海・西海道の西国はそれほど関係していません。そんなイメージに対して朝倉氏が注目したのは『日本三代実録』仁和2年(886)10月27日条に見られる、斎王が伊勢に到着した後、それまで伊勢国の正税(米穀)3000石を新居の費用に充てていたのを、伊予国の正税1000石、讃岐国1000石に振り替えたという記事で、これによって西国と斎宮の関りが出来、斎宮や伊勢神宮の知名度も上がっていったと考えられるとしているのです。
 これはなかなか興味深い指摘です。仁和2年は『延喜式』の成立より以前ですが、『延喜斎宮式』にはこの正税の納入についての記述はありません。そのため一時期的な改変とも考えられるのですが、『延喜斎宮式』の記述の多くは『弘仁斎宮式』を引き写したもので、弘仁(810−824)は仁和(885−899)より昔なので、新しい情報が入っていないということもありうるのです。いずれにしても、斎宮には四国から米が届けられていた時期が間違いなくあったのです。

 それはともかく、それを踏まえて何気なく「斎宮・愛媛県」で検索してみたら、引っかかってきたのがこの斎宮神社、だったのです(ちなみに「斎宮・香川県」では同様のヒットはありませんでした)。
ところがこの神社、愛媛県神社庁のホームページによると由緒不明の神社で、主祭神は倭姫命としています。しかし倭姫命という、伝承上とはいえ実在とされた伊勢神宮関係の人物を祭神とするのは、大正十二年(1923)に伊勢神宮別宮の倭姫宮が伊勢市に創設されるまではなかったはず、つまり倭姫命が祭神に定められたのは決して古くないと考えられます。また、ツイッターでは、宝永三年(1706)の資料には「三ケ月大明神」とある、と指摘されている人もいて、はたしてどういう神社なのかはよくわかりません。そもそも斎宮自体には、忌み籠りをする宮という意味があるので、斎宮だからと言って伊勢斎宮と関わるとも限らないのです。
 この愛南町というところ、海岸線が足摺宇和島国立公園になっているという風光明媚な所ですが、縄文・弥生時代の遺跡が知られているのみで、今のところ平安時代に遡る暮らしの様子はよくわかっていない地域のようです。『倭名類聚抄』によると伊予国宇和郡城上郷に属していたらしく、11世紀後半頃に賀茂御祖神社(上賀茂神社)の御厨が、さらに鎌倉時代には延暦寺領観自在寺荘という荘園が置かれているのですが、それが斎宮と関わるかどうかも不明です。第一、江戸時代の慶安元年(1648)の知行高でも、宇和郡全域で七千石程度だったことがわかっており(『愛媛県の地名』附表 平凡社 1980年)、とても南予(愛媛県南部)地方の郡だけで斎宮に送る千石の正税を賄えたとは思えません。しかしこの斎宮神社、長月川という小河川が谷あいに出てきて扇状地を作るという開発の根源地を見下ろす、いかにも古社、という感じの、実にいい土地に所在しているのです。
というわけで、斎宮神社がなぜここにあるのかは謎のままでしたが、いい所みたいなので、一度現地を歩きたいものです。出前講座で呼んで下さらないかなぁ。


榎村寛之

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