第80話  伊勢物語絵巻が語るもの

斎宮歴史博物館三十年の歴史の中で、本館にもいくつかのコレクションができました。そのほとんどのものはホームページの館蔵品紹介でご案内していますが、「伊勢物語」「三十六歌仙」「源氏物語」「有職故実」などが大きなグループになります。その中で今回は『伊勢物語』の絵巻についてのお話。
「むかし、男ありけり」で知られる『伊勢物語』は平安時代を代表する古典文学の一つで、その題名は「伊勢に隠された斎王との秘密の恋を代表とする物語」、つまり第六十九段「狩の使」に由来するという説が有力です。つまり斎宮と非常に関わりの深い物語、というわけなのですが、いかんせん『源氏物語』に比べると美術作品は圧倒的に少ない、そして人気があるのは「富士山を見る業平(富士見業平)」とか「三河の八橋」とか「墨田川」とかの東下りシリーズや、能でおなじみ「筒井筒」などです。つまり斎王制度がなくなって三百年たった江戸時代には、斎宮って何??という状況で、伊勢物語の名前の由来はわからなくなっていたのですね。
というわけで、江戸時代の狩の使章段の工芸品は全く見つかっておらず、絵巻や屏風などの絵画作品に限られているのが現状です。
しかしその中にもなかなか興味深い作品があります。今回ご紹介する、本館の三巻本の「伊勢物語絵巻」がそれです。奥書などはありませんが、品のある筆法と豊かな彩色とやや長めの顔が特徴的な、少し狩野派的な雰囲気がある、江戸時代中期(一六〇〇年代後半〜一七〇〇年代)の作と見て大きく外れはないだろう、というものです。
 そもそも『伊勢物語』という一つの作品で三巻も費やす絵巻はほとんど類例がありません。しかも一巻が二五メートル以上という長大なもの(ふつう一〇メートルもあれば十分長い絵巻です)となると、ますます珍しいのです。そして場面は全部で六三図あります。

狩りに出る「男(在原業平:朱色の)狩衣」と見送る女(斎王:桃色の衣装)

狩りに出る「男(在原業平:朱色の)狩衣」と見送る女(斎王:桃色の衣装)

ここで『伊勢物語』の絵画の大きな特徴をお話しておきます。それは、残されている江戸時代の美術作品のほとんどが、慶長一三年(一六〇八)に版行された通称『嵯峨本』の挿絵に影響を受けたものだということです。まさに出版文化恐るべし、を実感するエピソードなのですが、実は嵯峨本の挿絵が何の影響を受けていたかはよくわかっていません。室町時代以前に描かれた伊勢物語絵、またはその写しなどに、明らかに嵯峨本の原型と考えられるものがほとんど見当たらないからです。ちなみに第六十九段は「狩の使の男(在原業平とされる)の元を訪れる斎王と小さき童」の構図です。そして嵯峨本の挿絵は四九図で、この絵巻はそれよりかなり絵が多いのです。
さて、この絵巻には裏打ちがありません。あまりに長いので、裏打ちができなかったと見られます。しかし保存状態は良く、継ぎ目の剥がれもほとんどありません。つまり、それほど見られた形跡がないのです。そして初段と最終段がわざと描かれていません。最終段(男の死ぬ話)がないのは、嫁入本と通称される絵入り本の特色で、婚礼調度などの縁起物として作られたから、と見られますが、初段がないのは不思議です。そしてこの絵巻には随所に、ストーリーと関係なく、五七の桐の紋が屏風などに描かれています。これは花嫁の嫁ぎ先の家の紋所かとも思われます。とすれば、公家や大名レベルの婚姻のために作られたものと見られます。つまり一般向きの作品というわけではないのです。
 ところで、この絵巻の六十九段「狩の使」には、挿画が四画面もあります。そもそもこの絵巻を購入した時、絵自体にはそれほど古風な感じはせず、第六十九段の場面が多いことと、全体に絵が多いので、展示資料として適していると判断しており、嵯峨本より多い絵は、それ以降に創られた新作かな、と考えたわけです。ところが検討を進めていくうちに、それだけではすまない問題点が数多く発見されてきました。

おぼろ月を背に、業平のもとに忍び来る斎王

おぼろ月を背に、業平のもとに忍び来る斎王

まず、第六十九段についてお話をしましょう。この絵巻に見られるのは、@鷹狩に出かける業平と見つめる斎王、A業平の元に訪れた斎王、B斎宮頭兼伊勢守の開く宴会、C斎王からの、上の句だけを書いた別れの盃に下の句を付ける業平の四画面です。この画面の選び方は、絵の構図は全く違うものの、鎌倉時代後期の絵巻の写しと見られている東京国立博物館蔵『異本伊勢物語絵巻』の初段(一般的な伊勢物語でいう第六十九段)の構成と基本的に同じです(東博本の場合、@業平の元を訪れた斎王、A翌日の鷹狩、B斎宮頭の宴会、C盃に下の句を書く業平の順で、A〜Cは一つの続き場面として描かれる異時同図法を採っており、長い二場面になっています)。
そして第一画面の鷹狩は、室町後期〜江戸時代初期に描かれたとみられる、現在はアイルランド・ダブリンにあるチェスタ・ビーティー図書館が所蔵している『伊勢物語絵本』(以下、チェスタ本とします)に極めて似た構図のものがあることが判明しました。しかも、この絵本には、嵯峨本に見られない多くの画面があり、そのかなりのものがこの絵巻と合致することもわかってきたのです。
次に第二画面は斎王の訪れという最も普通の画面ですが、チェスタ本には見られません。一方、この構図の現存最古の例は、愛知県の穂久邇文庫が所蔵する、室町後期の『伊勢物語小絵巻』らしいということもわかってきました。つまりどちらも室町時代後期に遡る構図なのです。
そして第三画面の宴会は、他に類例のない画面です。そのため特に述べることもないかと思いきや、面白い特徴がわかってきました。この絵巻には、業平を示すドレスコードは三つあります。一つは大きな紋を散らした白の直衣姿で、かなり格調高く感じられます。二つは青地の直衣に菱形の文様を格子型に織り込んだいわゆる「業平菱」とか「業平格子」と呼ばれる小紋の図柄で、見るからに業平というものです。三つ目は、朱色の狩衣姿で、これが最も多い姿です。白の直衣と業平菱は、冠を伴うことが多く、まれに折烏帽子姿が見られます。ところが朱色の狩衣は常に折烏帽子で、冠をつけることはありません。狩衣はあくまで普段着なので、略装とはいえフォーマルな直衣と差別化を図っているのでしょう。そして最も格式の高そうな白の直衣は、第一巻の冒頭で業平の衣装として現れてきますが、第三巻ではほとんどが惟喬親王(業平が仕えていた文徳天皇の皇子)の衣装として描かれています。ところがこの絵巻の宴会場面には、業平菱の男と朱色の狩衣の男が、ともに折烏帽子姿で描かれています。普通なら業平菱が業平に決まっています。しかし翌朝の第四画面で盃に下の句を付けているのは朱の狩衣の男なのです。
ここにはコードの読み違いがあると考えられます。つまりこの絵自体に別のオリジナルがあり、その転写過程で生じたミスではないかと考えられるのです。そしてこのようなコードミスはチェスタ本には見られません(絵本の挿絵という性格上、チェスタ本は略式の絵となっています、そして業平は白の直衣で統一されています)。つまり、本館の絵巻はチェスタ本と直接つながるわけではないようなのです。
最後の第四画面もチェスタ本と同様の構図で、盃の内側に歌が書かれているように見えます。つまり当時の酒は濁酒なので、飲み干すと歌が出てくる、という演出効果を狙っているのでしょう。もちろんそこまでの描写は原文にはありません。ある段階の絵師の工夫なのです。

業平(業平格子の直衣)と伊勢守兼斎宮頭(朱色の狩衣)

業平(業平格子の直衣)と伊勢守兼斎宮頭(朱色の狩衣)

 このように見てくると、この絵巻とチェスタ本は、類似しているものの、いわば親戚程度の関係という感じがします。そしてどちらかというとチェスタ本の方が古風に見られるのですが、中にはこの絵巻の方が古い情報を残しているのでは、と思わせる所もあります。たとえば、第九段「東下り」の中には「三河の八橋」が出てきます。この橋には定型的な描き方(京菓子の八橋を互い違いに八つ並べたような橋、この構図からお菓子のデザインは採られています)があり、嵯峨本もチェスタ本もその形なのですが、この絵巻と異本伊勢物語絵巻は、普通の橋として描かれています。また、第八一段は、左大臣源融の別荘に造られた、陸奥の塩釜(藻塩を焼いて製塩する窯)が重要なキーワードですが、嵯峨本の挿絵には塩釜は描かれていません。チェスタ本も同様です。ところがこの絵巻には塩釜が描かれているのです。
そして近年発見された、一七世紀の成立と見られる広島県にある海の見える杜美術館所蔵の『伊勢物語画帖』という作品にも、この絵巻やチェスタ・ビーティー本と同様の構図のものがあると報告されています。どうやらこれら三作品は、お互いに転写関係ではなく、かつて存在した伊勢物語絵のグループ断片を伝える作品群と理解できるようなのです。
このように見てくると、今回ご紹介した伊勢物語絵巻には、室町時代に遡る古絵巻からの転写、またはそうした絵巻を集成・再編して再構成したなど、嵯峨本系の絵巻とは異なる成立過程が考えられます。伊勢物語の絵画としては、鎌倉時代に遡る重要文化財の『伊勢物語絵巻』(大阪・和泉市久保惣記念美術館蔵)と、先述した『異本伊勢物語絵巻』が古い、あるいは古体を伝える作品として知られていますが、室町時代の作品は挿絵本を除いてはほとんど知られていません。この絵巻はそうした失われた中世絵巻や、嵯峨本挿絵の成立過程を考える上でも貴重な資料なのです。
 そして何より、斎宮についての画面が四点もあることは、この絵巻が「伊勢」物語絵であることを強く意識して描かれていたこと、つまり伊勢物語は斎宮の物語、という意識を今に伝えるものではないかと思うのです。
 本館に入った美術資料には、それぞれに独自の経緯や研究の歴史があり、何か不思議な縁を感じるものがあります。そんなお話の一つを今回は書いてみました。

斎王からの別れの盃を見つめる業平(なぜか朱色の狩衣)と待機する斎宮の女官

斎王からの別れの盃を見つめる業平(なぜか朱色の狩衣)と待機する斎宮の女官

榎村寛之

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