第78話  斎王と天皇の不思議な関係

斎宮千話一話 斎王と天皇の不思議な関係
 先日終わりました平成最後、令和最初の展覧会となった企画展「めでたい!のいろいろ」は即位関係資料の展示を行い、ご好評をいただきました。その関係のお話を。
今回の一連の即位儀礼で面白いのは、退位と剣璽(けんじ)承継(しょうけい)が別の日に行われたことでしょう。もともと奈良時代後半までは、天皇が譲位(じょうい)したり崩御(ほうぎょ)したりすると、新天皇が即位する間少し時間が空くことになっていました。たとえば神護景(じんごけい)雲(うん)四年(七七〇)に称(しょう)徳(とく)天皇が後継者を決めずに亡くなった時など、急遽皇太子に指名された白壁(しらかべ)王が光(こう)仁(にん)天皇として即位するまで、皇太子のままで約二か月政務を見ていたと考えられます。こういうブランクは政治的空白にもつながるので、光仁天皇が桓(かん)武(む)天皇に譲位した時には、受禅という儀礼がまず行われました。天応(てんおう)元年(七八二)四月三日に、光仁天皇が譲位の詔を出すと、同日に皇太子の山部(やまべ)親王が受禅して即位し、十五日に桓武天皇として大極殿で即位儀を行っているのです。次に桓武天皇が亡くなって平城天皇が即位した時には、延暦二十五年(八〇六)三月一七日に桓武天皇が崩御、同日に璽(じ)(しるし)と剣の櫃が皇太子に奉られ、葬送が終わった後の五月一八日に大極殿で即位儀を行っています。これらのことから、受禅とは天皇のしるしを皇太子の元に移す儀礼で、それは崩御でも譲位でも、つまり喪中でも通常でも関係なく行われていたことがわかります。天皇のしるし、いわゆる三種の神器は、もともと即位の儀の時に新天皇に奉られるもので、譲位の場合は即位の儀まで、崩御の場合は喪が明けて即位の儀が行われるまで神祇官で預かるという形になっていたようです。しかし受禅の儀が成立することによってこの空白期間は解消されました。これが「剣璽承継の儀」の原型にあたるものです。しかし今回の場合は、退位の翌日に承継があり、一晩手放しているのです。二〇〇年ぶりの崩御以外の交替に際して、色々なところに新しい配慮がなされているようです。

さて、受禅が成立する以前は、六九七年の文武(もんむ)天皇即位以来、即位儀は大極殿の高御座(たかみくら)に坐した天皇が、天皇のしるしを受け取り、天(あまつ)日嗣(ひつぎ)の現御神(あらみかみ)、つまり生きた神として国を治める宣言(詔(みことのり))をして、皇太子以下の人々の拝礼を受ける儀式でした。奈良時代において、天皇が政務や儀式の場である大極殿に出る機会は意外に少ないのですが、例えば元日(がんじつ)朝賀(ちょうが)といわれる正月一日の儀式では、皇太子、大臣以下各省の官人など文字通り百官が朝堂院に整列して、大極殿院南門越しに高御座に着した天皇を拝礼するものでした。この形は即位儀の時とほぼ同じで、天皇がお出ましになるだけで百官の勢ぞろいなど大掛かりなイベントとなります。つまり天皇はすべての人から拝礼を受ける存在なのです。
 平安時代の元日朝賀では、天皇は真っ赤な唐風の衣装を着ます。袞(こん)衣(い)に冕(べん)冠(かん)を着して、『書(しょ)経(きょう)』に見られる十二の皇帝の印のうち日・月・星辰・山・龍・華(か)虫(ちゅう)(五色の雉)・火・宗彝(そうりん、トラとサルの文様で代用)を縫い取りにして飾る「袞冕(こんべん)十二章(じゅうにしょう)」と呼ばれる形です。これは中国の皇帝に準えた礼服と考えられます。
さて冕服は奈良時代の天平四年(七三二)に聖武天皇が始めて着た、という記述が『続日本紀』に見られます。一方、正倉院には、聖武天皇の白い礼服があったする記録があり、平安時代以降の袞衣とは色が違っており、この変化は桓武天皇の頃に起こったのではないかという説もあります。だとすれば、天皇の衣装の唐風化は、この時期に即位の儀の意味と大きく変わっていることと連動している可能性があります。平安時代の即位儀は、神器奉献がなくなって天皇を拝礼するだけの儀式になり、イベント色が強くなります。「袞冕十二章」の着用は即位式のイベント化と符合するのです。同様の変化は、天皇が座る座席「高御座」にも見られた可能性があります。『延喜式』の「内匠寮(たくみりょう)式」に見られる高御座は、九羽の鳳凰と二十五面の鏡と玉(ぎょく)幡(ばん)と呼ばれるキラキラしたカーテンで飾られた大変華やかなものですが、はたして奈良時代以来このようなものだったのかどうかはわかりません。もともと高御座という言葉は、大殿祭の祝詞などでは、天の高御座、つまり高天原で皇祖神ニニギノミコトが座っていた座、という意味でも語られていますので、唐風の華々しい座席とは少しイメージが異なります。
もともと即位式は、天の高御座に例えられる座に天皇予定者が座り、神祇官(じんぎかん)から(さらに古くは臣下の代表から)天皇のしるしである神器を受け取り、新天皇として生まれ変わる儀式で、それは高天原を大極殿の中に再現する祭祀的な儀式だったと考えられます。それが八世紀後半以降、新天皇のお披露目イベントになっていったのです。
さて、即位式が天皇を生み出す祭祀ではなく、臣下が天皇に拝礼する儀礼に転換していくのが平安時代の傾向だとすれば、その傾向に反した儀式を続けていた存在がありました。
それが斎王です。

無題 無題
無題 無題

斎王は『延喜式』には「天皇が即位すれば伊勢斎内親王を選ぶ」とあり、実際に、受禅が一般的になっても、受禅と即位儀の間に斎王を置いた天皇は全くいません。斎王卜定は大嘗祭(だいじょうさい)より以前に斎王を置く例がほとんどですが、即位儀以前の例はないのです。これは、即位以後でないと、天皇は斎王を置けない、つまり伊勢神宮祭祀を行えない、ということです。その斎王が天皇を拝賀しないのです。
もともと斎王は都にいる時にも元日朝賀などには参加しません。そして天皇と斎王が会う機会は一度しかありません。それは斎王の出発儀式、いわゆる「別れの小櫛」の儀礼の時です。この儀式は大極殿で行われますが、天皇は高御座には坐すことなく、床に座を設けて斎王に対し、手ずから額に櫛を挿し「都の方におもむきたまふな」と声をかけます。この時、斎王は天皇の前に座っていますが、櫛を受けた後で深々と天皇を拝するような儀礼は記されていないのです(映像展示「斎王群行」では演出上互いに軽く会釈をさせています)。
そして斎宮でも、元日には斎王は大神宮を遥拝した後、南門を開けて斎宮寮官人の拝賀を受けると『延喜式』に記されています。これは同じく地方に派遣されていた国司が、まず京の天皇を遥拝した後に郡司からの拝賀を受けるのとは大きく異なっています。斎王が拝礼をするのは、伊勢神宮の三節祭だけ、斎王は伊勢神宮にだけ拝礼する存在なのです。それでは斎王は、百官はもとより皇太子よりも偉いのでしょうか。
この斎王の特色は、斎王が天皇の伊勢神宮を祀る権限を分け与えられた者、つまり天皇の分身的な存在だったことを意味しているようです。即位儀によって神に等しい存在になった天皇は、その守護神である天照大神とのお付き合いをごく身近な女性の斎王に託したので、斎王は天皇の側に位置している人なのです。
だから斎王は天皇を拝さないといえるのでしょう。斎王は、奈良時代や平安時代の天皇と臣下の関係、君臣関係から離れた存在だったのです。

榎村寛之

ページのトップへ戻る