第74話  日本最古? 多度神宮寺の「コマイヌ」〜企画展「王朝人が愛でた動物たち」によせて〜

三重県桑名市にある多度神社には『多度神宮寺伽藍縁起資財帳』という文献が伝わっています。そこに「高麗犬一頭」という記述がでてきます。この資財帳は延暦二十二年(803)十月三日の奥書があり、神宮寺・伊勢国師・尾張国師・僧総所に各一通出されたもので、伊勢・尾張国の大国師、少国師と、僧や寺院を統括する組織の僧綱の偉い人が署名していますから、立派な公文書です。研究者の間では、多度大神が「神道」に生まれた報いに苦しみ、仏に帰依したいと託宣したので、多度大菩薩として神宮寺を造った、という初期的な神仏習合の記録で知られています。
 その中の「楽具」という項目の中に、楽器や武器とともに「高麗犬」が出てくるのです。九世紀初頭の「コマイヌ」というのは、おそらくもっとも古い記録ではないかと思われます。そして面白いのは「一頭」という表記です。普通コマイヌといえば「阿・吽」の二頭一組。もう一頭はどこに行ってしまったのでしょう。
 実はこの一頭は一匹の意味ではないようです。
斎宮のある明和町や松阪市あたりを北限に、三重県南勢地方では、今でも「御頭神事」と呼ばれる獅子舞の神事が正月や旧正月に各地で行われます。この祭では神聖な獅子頭を使って獅子の舞を見せ、見物人の頭にかぶりついたり、歯を打ち合わせて鳴らしたり、真っ赤な口を開いたりするもので、厄払いのお祭りだと考えられています。そして、この御頭神事の獅子は「頭」のみで保存されています。まさに「一頭」なのです。

おそらく『多度神宮寺伽藍縁起資財帳』の高麗犬も、頭だけが保存されていたのでしょう。現在大阪・四天王寺には平安時代以来の舞楽が伝わっていますが、そこに出る獅子(雅楽では「師子」としています)の姿も、獅子頭だけが立派で胴体は布をかぶっている、「獅子舞」の形です。古代以来、獅子の数え方は、まさに「頭」が基準なのでしょう。とすれば、この「高麗犬一頭」も「高麗犬の頭が一つある」という意味なのかもしれません。
しかし明和町斎宮跡・文化観光課の味噌井拓志氏の研究(「『棚橋の御頭神事』の開始年代に関する一考察」 『Mie history』 vol25 2018年)によると、これらの神事は室町時代に始まり、江戸時代に盛んになったとのことで、今に残る獅子舞と平安時代の舞楽とは直接に結びつくことはないようです。まして高麗犬となると直接の関係性は少なそうです。
 しかし、どうも問題の「高麗犬」もまた、舞の道具のようなのです。
『多度神宮寺伽藍縁起資財帳』ではこの高麗犬は「楽具」の中に入っているので、大きなお寺で演じられていた伎楽や雅楽で使われていた可能性が高いのです。そして鎌倉時代前期の天福元年(1233)になった雅楽書『教訓抄』によると、高麗楽と呼ばれた右方の曲の中に「狛犬」という舞があり、相撲節会や打毬(今のポロのようなスポーツ)儀式の時に行われたようです。貴族が左右チームに分かれて楽しむ打毬の時には、右方が勝った時にこの曲が演奏されるとしています。また、この舞は舞人2人に口取2人が付くとあるので、口取が高麗犬を引き出して、高麗犬が激しく舞うというものだったようです。
また、清少納言の『枕草子』第278段(日本古典文学大系本、新日本古典文学大系本では259段)には、関白藤原道隆(清少納言が仕えた中宮藤原定子の父)が、私宅の二条院を改築した法興院の中にある積善寺で行った一切経供養に参加する定子一行の様子が記されており、輿に乗った定子が寺に到着した所でこんなことがあったとしています。

「大門のもとに、高麗、唐土の楽して、獅子・狛犬をどりまひ、乱声の音、鼓の声に、ものもおぼえず。こは生きての仏の国などに来にけるにやあるらん、と空ひびきあがるやうにおぼゆ」
 ここでは、雅楽に合わせて獅子と狛犬がセットになって舞い踊る姿が、仏の世界のように見えたそうです。四天王寺の聖霊会では、獅子は舞楽の先導として登場し、『年中行事絵巻』の今宮祭の行列には獅子舞が数組歩いている様が描かれています。ここでは高麗犬は、獅子と同じく、行列の先頭で目に見えない悪いものを追い払う役割があったようです。獅子と高麗犬は、几帳の鎮子(布を押さえる錘で魔よけのため怪獣の形をしていた)でもペアになっていますが、古くからセットだったのだなということがよくわかります。
 しかし、こうして見てくると面白いことに気が付きます。まず、多度神宮寺では獅子がおらず、高麗犬のみなこと。つまり獅子とペアではなく、仏教儀礼の行列の先頭は高麗犬が守っていたということです。次に延暦年間にはまだ雅楽が成立していないとうことです。雅楽は九世紀前半の仁明天皇の時代に、それ以前の伎楽などを日本的にアレンジして成立したことが明らかになっていますので、『多度神宮寺伽藍縁起資財帳』の高麗犬はそれ以前のもの、つまり伎楽の中ですでにいたのだ、ということになるのです。そしてそんな古い形、おそらく奈良時代のた舞楽が伊勢国の北端、多度神社の神宮寺に伝わっていたのも面白いことです。

また『教訓抄』によると、獅子の舞と高麗犬の舞は本来必ずしも対になっていたわけではなく、獅子の舞は「御願供養」で行われるものだとしています。とすれば、『多度神宮寺資財帳』の高麗犬だけが本来の形で、『枕草子』の積善寺の一切供養に狛犬が出ていたのはイレギュラーだったということになり、実際に『教訓抄』にも、『師子』の舞の返礼で『狛犬』を舞うことはないとしています。ところが『教訓抄』にはさらに面白いことが書かれています。古い譜によると、犬が出た後に「大真人」という者が出て、犬が大真人を追掛けて喫す、つまりかみつくしぐさがあるというのです。狛犬と真人の舞踊には「乱声」というダイナミックな笛が演奏されるので、きっと見ごたえのある場面だったのでしょう。この「大真人」が何者かは全くわからないのですが、「真人」といえば道教の神仙のことなので、あるいは外国人のような風貌の人を犬が追いはらう、という舞だったのかもしれません。とすれば、「狛犬」はもともと、疫病をもたらすような異形のモノを、超能力を持った犬が追うという、破邪の舞だったとも理解できます。それなら中宮の行列の先頭で舞うのも不思議ではありません。
 しかし残念ながら「狛犬」の舞は廃絶しており、また『教訓抄』を書いた雅楽の大家、狛近真(こまのちかざね)は左方舞の家の人で、「狛犬」は右方の多(おお)氏の秘伝だったため、よくわからないことが多いようです。
 現在では、獅子というと獅子舞、コマイヌというと神社の番犬、というイメージがありますが、1200年前の多度神宮寺では、高麗犬が仏を護る神聖な動物とされていたようです。コマ「イヌ」だって獣王の獅子にまけずにがんばっていたんだなあ、と思うと、ちょっと愛おしくなりますね。

平安・鎌倉時代の高麗犬イメージです。イうーん、相当な猛犬!?

平安・鎌倉時代の高麗犬イメージです。イうーん、相当な猛犬!?

榎村寛之

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