第63話  謎の「宮子内親王」は意外な有名人

 江戸時代に『古今貞女美人鑑』という美人番付があったことを最近知りました。某アイドルグループの総選挙を例に挙げるまでもなく、現在でも日本人はランク付けが大好きですが、江戸時代後期から末期にかけては、「見立番付」といって、いろいろなランキングを相撲の番付の形で発表することが大流行しました。当時の江戸相撲の番付の形は今の相撲番付と同じく、縦書き数段、東西二段に分かれて、真ん中には空欄があり、「蒙御免」の大きな文字と、行司や勧進元(スポンサー)などの関係者の名前が並んでいます。その当時、横綱は強い大関の名誉称号のようなものなので、東西の最高位が大関、以下関脇、小結、前頭・・・と続きます。
 この美人番付は、「蒙御免」(幕府の認可を受けています、の意味で、無届け興行ではないことの証明書き)の代わりに「為御覧」、おそらく「ごらん下さい」の文字が大きく書かれています。そして東西の大関は、衣通姫と橘姫です。衣通姫は古代の美女で、その美しさが衣装を透けて伝わってくると記された人です。番付の解説では「允恭天皇の妃」と書かれていますが、これは『日本書紀』の説、『古事記』では允恭天皇の娘とされているので、『日本書紀』に拠って書かれているのがわかります。ところがあわせて「玉津島明神」とも書かれており、当時の人々には、和歌山の玉津島明神(和歌の神)として親しまれていたことがわかります。一方西の大関の橘姫は「おしやますくねの女、やまとたけのきさき、たちばな木のみょうじん」とありますので、日本武尊の妃とされる弟橘媛と考えられます。「おしやまのすくね」は、『日本書紀』に、弟橘媛の父として出てくる「穂積忍山宿禰」のことで、やはり『日本書紀』に由来しているようです。千葉県茂原市には上総二宮だった橘木神社があり、橘木の明神というのはこれのことのようです。このように両大関は『日本書紀』の記述をもとに、江戸時代に神として信仰を集めていた美女らしいことがわかります。

 次の関脇には、東が中将姫、西が弥生前というあまり馴染みのない名前がならびます。中将姫は藤原豊成という奈良時代の右大臣の娘で、仏教をあつく信仰して、当麻曼荼羅という美術品を蓮の糸で織り上げ、極楽往生した、という伝説上の美女で、江戸時代にはいろいろな芸能でも親しまれていました。弥生前には「ほんだよしみつの妻」とあります。本田善光というのは長野県の善光寺を造ったとされる飛鳥時代の人で、その妻と息子と三人一体で善光寺に祀られています。この妻が弥生前です。江戸時代後期には、善光寺は「お血脈」という印を額に押して極楽往生を保証してくれる、現世の免罪の寺として親しまれており、本田善光や弥生前もその仲介をしてくれる一種の神様として広く知られていたようです。というわけで、この二人は江戸時代の民間信仰つながりといえるでしょう。
 さて、この美人貞女番付に斎王関係者はいるのか・・・それが代表的な斎王、斎宮女御も大来皇女もランク外、ううんやっぱりマイナーか・・・ところが実はいるんです。場所は「為御覧」の下、つまりランク付けできない別格美人として、「斎宮始 いつきのはじめ」として「豊鋤入姫」、そして「すいにんていの女 やまとたけのおば」として「倭姫」が。
 このお二方が美女だったかどうかはともかく、豊鋤入姫は「きさきのはじめ」神武天皇の妃、五十鈴姫(ヒメタタライスズヒメノミコト)と、倭姫命は神功皇后とペアになってますから、太古の有名人つながりという感じなのでしょう。
 そしてこの番付にはもう一人、意外の斎宮関係者がいました。一人はあの井上皇后、「くわうにんていのきさき(光仁帝の后)」としてランクインです。ええっと、聖武天皇の皇女で他戸親王の母、天皇を呪詛した罪で失脚・・・美女?貞女?・・・。怨霊の部ではないのですか?・・・すいません。
 そしてもう一人、井上様より上に、渡会宮子という人が・・・なんであなたがここにいるの?肩書きは「いせの大かんぬしおごとの娘 八だいめのいつき」
 鎌倉時代に編纂されたと見られる『二所太神宮例文』という文書があります。中世に「二所」と書くのは、内宮と外宮を同等と見る立場を主張していることなので、この本は外宮よりの立場で書かれたことがわかります。この中に斎王の代々を記した章があり、そこに「宮子内親王」という名前が出てきます。この人は欽明朝の斎王とされ、歴代斎王でただ一人、伊勢神宮の大神主小事の娘でありながら斎王となった人で在任二十九年、と出てくるのです。もちろん『日本書紀』には出てきません。当然ながら斎王の資料がほとんどない『古事記』にも。

 そして父の「大かんぬしおごと」は、「神主小事」という人物のことで、これも鎌倉時代に編纂されたらしい『豊受太神宮祢宜補任次第』によると、
「欽明朝の二所太神宮の大神主にして度会氏四門という血統の始祖、その娘宮子が「内親王御杖代」に立ち、その時に天皇は安穏、人民は快楽だったので、小事が亡くなった時に東国の民を使って墓を造ることが許された。その霊は度会郡の田上大水社に祀られ、宮子の霊も同所にあり、前社に祀られている。」とのことです。こちらも『日本書紀』などには出てきません。
 そもそも欽明天皇の時代には「内親王」制度はなかったし、「宮子」という女性名も不自然すぎます(小野妹子のように、この時代なら子は男性名です)。というわけで6世紀の斎王ではまずありえません。江戸時代の学者も当然それは気がつくわけで、幕末の国学者にして内宮の神主だった薗田守良が「皇族ではないのに斎王とは変だし、内親王なんてぜったいありえない。外宮関係者が適当なことを言ってるにちがいない」と否定して以来、ほとんど無視されてきた斎王です。そして「渡会宮子」とはこの宮子内親王のことなのです。八代目の斎宮というのは、『二所太神宮例文』や、それから抜き書きしたと見られる『斎宮記』という文献とも合致します。
 ではなぜ彼女がこんなに有名だったのでしょう。ここで一つの仮説を立ててみましょう。
江戸時代、彼女に関わる大きな事件としては、彼女の霊をまつるとされた田上大水神社が承応元年(1652)に復興されたことがあげられます。室町時代以降、現在125社といわれる神宮の摂社、末社などはほとんどその所在がわからなくなりました。神社はその時代の社会のあり方、つまりまつる組織の変化によってなくなることが多いのです。ところが江戸時代になって、古代にならって末社を探して改めて置く、というムーブメントが起こりました。度会氏の祖先神とされた田上大水神社の復興は、その先駆けとして大きな意味を持っていたのです。特に外宮の祢宜たちにとっては。

 そしてこの、田上大水神社の再興に深く関わっていたらしいのが出口(度会)延佳(1615−1690)という外宮神官なのです。彼は、鎌倉時代に大成した、外宮を重視した神道「伊勢神道(度会神道、外宮神道とも)」を、より平易な形で江戸時代に再興した人で、外宮の文庫である豊宮崎文庫を創設したことでも知られる、いわば江戸時代の外宮の理論的支柱になった神道家なのです。江戸時代の伊勢参詣の普及に関して、御師と呼ばれる下級神主たちの活動が大きな役割を果たしていたことは、最近よく知られるようになってきましたが、外宮の方が内宮よりその活動がずっと盛んだったのは意外に知られていません。さらに近年、千枝大志『中近世伊勢神宮地域の貨幣と商業組織』(2011 岩田書院)によると、室町時代後期以降、外宮の門前町である山田の自治組織である山田三方と外宮は、子良館、つまり外宮に仕える筆頭巫女の大物忌の詰め所を介して経済的に深く関係していたことが指摘されています。そして「宮子内親王」が斎王の代わりになったとすれば、彼女はもともと大物忌だったということになるのです。さらに延佳は、代表的な外宮御師、三日市家の娘婿でもありました。
 こうした経緯もあって、外宮の御師たちは、田上大水神社の復興を踏まえ、内宮と外宮は同等とする出口延佳の思想を学び、江戸をはじめ各地を歩いて外宮への参詣を説いていたのではないかと思われます。その時の切り札、いわば看板キャラクターになったのが、自分たちが深く関わる子良、すなわち大物忌の祖先で、皇族でもないのに斎王になった度会氏出身の宮子だったのではないでしょうか。
 「外宮の神主の家からは斎王さんも出たことがあるのじゃ、それほどすごいお宮なのじゃ」という感じですね。
ただし皇族でもないのに内親王とするのはおかしいし、信じてもらいにくいから、名前は「渡会宮子」にする、たしかにこの方が自然ではあります。
宮子内親王こと渡会宮子は、その一族とのゆかりを称する外宮の御師たちによって、江戸時代の伊勢信仰の普及とともに広まり、『古今貞女美人鑑』に取り上げられるまでになっていたのではないかと思われるのです。

榎村寛之

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