第59話  伊勢物語に描かれた斎宮−「斎宮の耀き」展によせて−

 平成28年度の斎宮歴史博物館企画展は「斎宮の耀き−平安の雅と女性の躍動−」から始まります。伊勢志摩サミットを控えて、斎宮に深く関わり、斎宮でも花開いた平安時代の女性文化を紹介する展覧会です。
 この展覧会の目玉は、斎宮歴史博物館が所蔵している斎宮関係の美術資料を一挙大公開することです。本館は開館以来、多くの斎宮関係資料を集めてきましたが、これだけの形で優品を展示したことはかつてありませんでした。サミットで世間の注目が集まる中、斎宮博は美術コレクションでもこれだけのものがある、ということを知っていただくいい機会だと考えた次第です。
 さて、博物館が持っている美術資料といえば、王朝物語に関わるものがその主流を占めています。特に『源氏物語』『伊勢物語』をテーマとしたものが数多く、それは、この二つの物語を介して、斎王や斎宮が広く知られるようになってきたことを示しているのです。
 特に『伊勢物語』については、斎宮を舞台にした物語が最も有名になったので、『伊勢物語』と言われるようになった、と言われる位斎宮とは関わりの深い平安文学なのです。とはいえ、斎宮は都からは遠く、単なるイメージとして書かれているのかな、とも言われてきました。
 しかし、その原文を読むと、あ、この作者は斎宮を知っているな、という書きぶりがところどころに見られるのです。
まず、『伊勢物語』では、在原業平とされる「狩の使」(天皇に代わって鷹狩をして鳥を獲る勅使)が「斎宮なりける女」に会いたいと訴え、女は会いたくないという訳ではなかったけれど、「人目しげければ、え会わす」という一節があります。
以前、「斎宮千話一話」の第十二話でも書きましたが、人目の多い斎宮、というのは、方格地割の中で、500人を超える人々が行き来していた、9世紀の斎宮の表現としてはじつにわかりやすいものです。勅使待遇の業平が、もしも方格地割の「柳原区画」つまり「さいくう平安の杜」の正殿(正確には今の復元正殿の次の時代の正殿か?)に泊まっていたとしたら、そして斎王が「さいくう平安の杜」の南側の牛葉東区画(現在の竹神社周辺)、または竹神社の東側の区画である鍛冶山西区画にいたのだとすれば、この間を人目を避けて通ってくるのはかなり難しいです。もっとも、『伊勢物語』の原文では、業平を「遠くも宿さず」とあるので、特例で、大型の建物が複数配置されていた鍛冶山西区画の中のどこかの建物に泊まっていた、というイメージなのかもしれません。

翌日、斎宮頭(斎宮寮長官)の主催で宴が行われ、業平と斎王は再び会うことはできませんでした。その宴会の場は、「さいくう平安の杜」の正殿にあたる建物を想定している可能性が高いのです。そして今回展示する『伊勢物語絵巻』には、この宴会の場面も描かれているのです。
この絵巻物は、第69段、この狩の使章段だけが4場面もある、他に類のない絵巻です。(その部分の複製が常設展示室で紹介されています)。普通の伊勢物語絵では、この段は、斎王が業平の元を訪ねてくるその一場面だけなのですが、ここでは@業平が狩に出で立つのを斎王が御簾ごしに見送る場面、A斎王が業平のもとを訪れる場面、B翌日夜の宴会の場面、C翌朝に別れの歌が送られてくる場面が描かれているのです。絵巻自体は江戸時代中期のものと見られ、3画面は江戸時代の知識で書き足されたものと思っていたのですが、その後、@とCについては、アイルランドのダブリンにある「チェスタ・ビーティ図書館」の日本美術コレクションに、江戸初期をさかのぼる絵入り手書き本の伊勢物語があり、そこに同様の挿絵がみられることが判明しました。この絵本と本館の絵巻は、どちらかがどちらかを写した、というほどは似ていないので、共通の祖本があるのだろうと考えられています。つまりこの絵巻は、今は失われた、おそらく江戸時代初期以前、室町時代の絵巻の写しではないかと考えられるのです。だとすれば、Bの宴会の場面も、中世の宴会の雰囲気を伝えるものと考えることでできそうです。
さて、もう一つは、斎王が業平のもとにやってきた時、「小さき童を先に立てて、人立てり」という表現が見られることです。斎宮の女官の中には「女孺」と呼ばれる女性たちがおり、一等・二等・三等、また上等・中等・下等のランクに分かれていました。女孺は「めのわらわ」と呼び、本来少女の頃に氏女、采女などとして宮中に上がった中央の中級以下の氏族、地方の有力氏族の娘から選ばれ、宮中の清掃や整理などに携わり、高級女官に昇進することもあった人たちです。しかし宮中では、平安初期に女官の制度改革があり、30歳以下では女官になれなくなってしまいます。
しかし斎宮では、女孺という名前が残されているように、特に斎王が低年齢の女の子であることも多いので、少女ともいえる若い女子が働く、ということもあったのではないか、と思われます。なお斎宮には、祭祀に使う神聖な火を管理する「火炬小女」という少女が、地域から採用されていましたが、これはごく限定的な仕事なので、ここでいう小さき童、とは異なると思われます。

この「小さき童」は斎王が業平のもとを訪ねてくる場面には必ず描かれていて、重要な登場人物になっています。斎王という超高級な身分に仕える少女、という存在が、平安時代の貴族や以後の読み手たちの想像力をいたく刺激したのでしょう。後の時代には、彼女に「すぎこ」という名前を与えた注釈書も出てくるぐらい有名な人だったのです。
今回の展覧会では、この場面も描かれた三重県指定文化財『伊勢物語図屏風』も久しぶりにお目見えします。伊勢物語の名場面を、洛中洛外図屏風のように一双の屏風にちりばめた屏風は、全国で3例ほどしか報告されておらず、極めて珍しいものです。作者は不明ですが、18世紀初頭頃につくられたものと考えられています。
この屏風には3つの大きな特徴があります。1つは男性貴族の顔です。普通の眉の上、額に描き眉をしているのです。つまり眉が4本あるように見えるのです。もう1つは、最後の段の内容です。この屏風は、右隻から左隻へ、右上から左下へという流れで描かれており、左隻の左下が最後の場面になります。そして普通はこの場面は、在原業平とされる「男」が死ぬ場面が描かれているのです。ところがこの屏風では、着物の袖で頭をかくしてにわか雨を防ぐ「肘笠雨」の姿勢で庭らしき所を歩く男に声を掛ける男、という場面が描かれています。これは『伊勢物語』も終わりに近い121段、通称「梅壺」という章段で、宮中の局のひとつ、梅壺(正式には凝華舎といい、中庭に梅を植えているのでこの名がある)から出て行く人と男が歌をやりとりする、という話です。おそらくこの屏風がたとえば嫁入り道具のような縁起物であったため、最後に男の死を描くことを避けたのでしょう。この特徴は屏風の製作意図を考える大きな手がかりとなります。この場面には3つ目の面白い特徴があります。梅壺は後宮の建物ですから、『伊勢物語』である以上、そこから出て行くのは高級女房のような女性で、男が恋心を打ち明けた、という内容のはずで、男と男が話しているのはおかしいのです。ところが、じつはこのような絵を描いている伊勢物語絵も若干ながら存在しており(たとえば東京国立博物館蔵の住吉具慶画『伊勢物語絵巻』など)、そうした先行情報に基づいてこの場面は描かれていることがわかります。

この男性貴族の顔や、梅壺の考証の問題は、この屏風が色々な情報が集まる所、つまり土佐派、住吉派、狩野派、岩佐派などの画派を越えた絵師たちが共同製作を行う「絵屋」、今で言うプロダクション製作にかかるものだったことを推測させるものです。
『伊勢物語図屏風』は、内容の面白さだけではなく、江戸時代初期の、珍しい画題の屏風製作のありかたを考えるヒントも与えてくれる貴重資料なのです。

榎村寛之

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