第57話  牛の車とくろがねの馬と  企画展「とらべる図鑑−のりものと旅−」によせて

  田丸の駅に程ちかき
     斎宮村は斎王の
   むかし下りて此国に
     住ませ給ひし御所の跡

「汽笛一声新橋を」に始まる『鉄道唱歌』は、1900年(明治33年)に大和田建樹によって作詞されました。現在はこの「東海道」編が有名ですが、大和田は同年のうちに東北、西日本、北陸など各地のバージョンを作詞し、全国の名所旧跡をその中に織り込みました。この歌には当時の地理・歴史教育の一環、という性格も期待されていたのです。
そのうちの「関西・参宮・南海」編では、斎宮が取り上げられました。と言っても、ここで取り上げられているのは参宮鉄道、現在のJR参宮線なので、斎宮跡には駅はありません。「田丸の駅」は多気で紀勢本線から分かれる参宮線で二つ目、伊勢市まであと三つという所で、斎宮から南に7キロほどありますから、決して「程近き」ではありません。また、田丸城跡があり、伊勢側の熊野街道の起点となるなど、史跡の多い所でもあります。しかし『鉄道唱歌』の中では、天皇家に関わりの深い名所は積極的に取り上げられていますので、斎宮が優先されたようです。
斎宮に「斎宮駅」が出来たのはそれから30年の後、1930年(昭和5年)のこと、当時の参宮急行電鉄、現在の近鉄山田線の開業に合わせたものでした。実は近鉄線は伊勢神宮の参詣する伊勢街道(参宮街道)に平行して走っており、参宮鉄道開通時には、街道と平行して鉄道を設置することについて、沿線各地で反対運動が強かったのです。鉄道が走る時代になっても、斎宮周辺の街道筋は、徒歩や馬、せいぜい人力車程度の、江戸時代以来の面影がよく残っていたようです。

さて、明治時代に作られた近畿地方の鉄道網の中で、京都と斎宮を結ぶ道筋は、平安時代初期の官道のルートにかなり重なっています。まず京都から草津(滋賀県草津市)までの東海道本線は、文字通り旧東海道に沿ったものです。東海道というと江戸時代の街道イメージが強いのですが、道の名としては、奈良時代以来の歴史がある官道でした。
草津から亀山(三重県亀山市)までは現在の草津線(草津〜柘植)と関西本線(柘植〜亀山)のルート、当初、四日市まで結ぶ関西鉄道の本線として開業しました。本来の東海道は現在の国道1号線とほぼ重なり、江戸時代の宿場でいうと草津−石部−水口−土山−坂の下−関−亀山と鈴鹿峠を越えていく道でした。しかし、鈴鹿峠を鉄道が通るのは無理、と判断したようで、石部と水口の間の三雲から別れて平坦な道を進んで伊賀市柘植に抜け、関まで加太峠を通る、という選択をしたようです。このルートは、平安時代前期、平安遷都から仁和二年(886)まで、鈴鹿峠を越える阿須波道が開通するまでの東海道にほぼ沿っているようです。
この東海道とは関でお別れです。その後、鉄道ルートは亀山から津−松阪−多気−伊勢市と続くのですが、津までは関西鉄道の支線、そして津から伊勢市駅(当時は山田駅)までは参宮鉄道となっていました。これは江戸時代の伊勢別街道と伊勢街道のルートとほぼ重なり、津を経由して海岸線近くを松阪に向かうのは平安時代後期の勅使の日記に出てくるルートとも重なります。そして松阪で近鉄線に乗り換え、各駅停車で4駅行けば斎宮です。

このように、京都から斎宮を結ぶ鉄道ルートは、かなりの部分が平安時代前期の京と斎宮を結ぶ道筋と重なっていました。今なら快速と普通電車を乗り継いで3〜4時間のルートですが、平安時代の斎王群行は5泊6日をかけた旅でした。斎王は輿を使っていたことが知られていますが、群行には牛車も使われ、斎王に仕える貴族女性たちは、牛の牽く車で鈴鹿の峠道を上下する、という大変な旅をしていたようです。
 一方、大阪市上本町と伊勢市宇治山田を結ぶ近鉄電車は、先にふれた参宮急行電鉄とその親会社である大阪電気軌道によって開通しましたが、この道筋の半分ほどは、斎王が天皇崩御や近親の喪により退下して都に戻る道と重なります。それは斎宮から伊勢中川を経て、青山峠を越え(今はトンネルですが)、名張市に至るまでのルートです。この後斎王の一行は、今の西名阪自動車道に近いルートで、天理市から奈良市を経て京都府木津川市に至り、木津から舟に乗って木津川、そして淀川を下り、難波津、つまり今の大阪湾の海辺で禊をして都に帰っていました。一方近鉄は桜井−大和八木−大和高田−上本町のルートで大阪に向かっているのはご存じの通りです。
 上本町と宇治山田の全通に伴い、特急電車が走り始め、大阪と伊勢は2時間程度で結ばれるようになりました。これは今の近鉄の快速急行とほとんど変わらない速度です。その特急に使われた、つまり鉄道が走った当時、斎宮の地を疾駆していた特急電車を参宮急行電鉄2200系(後の近鉄2200系)と言い、当時の国内最高級の電車とうたわれました。この車両は残念なことに保存されることがありませんでした。しかし精巧に作られたその模型が今、斎宮歴史博物館企画展「とらべる図鑑−のりものと旅−」で展示されています。
江戸時代の面影がよく残っていた街道に平行して、ある日突然時速100q近くで疾駆する電車が走るのを見た斎宮の人たちは、どんな思いでこの巨大な「くろがねの馬」を見上げたのでしょう。いきなり未来にタイムスリップした気分だったのかもしれません。

 


榎村寛之

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