第56話  斎王がこの世の終わりを告げる時!?

 斎宮千話一話は、斎宮についての、さまざまな新しい話題を皆様にご提供することをモットーとしていますが、そういつも新鮮な素材があるわけではありません。しかし今回は久々に、蔵出しともいえる珍しい情報を見つけました。斎王と伊勢神宮がこの世の終わりに関わっている、といううわさ話です。
 大阪府堺市に大鳥神社という古社があります。十世紀に編纂された『延喜式』の神名帳にも「名神大社」という格の高い神社として載せられており、平安時代後期には和泉国一宮になっています。本殿の建築は大鳥造と呼ばれ、住吉大社の住吉造をアレンジした様式で、いかにも歴史と伝統を誇っている神社という雰囲気のある所です。
しかし今は堺の町中になってしまい、残念ながら度重なる戦火や戦災によって、古い文献はほとんど残っていません。ところが近年、国立公文書館内閣文庫に『大鳥太神宮并神鳳寺縁起帳』(以下「縁起帳」とします)という史料があることが紹介され、いささか注目されています。この史料自体は中世、鎌倉時代に成立したものなのですが、奈良時代に遡る伝承も入っているのではないか、というのがその大きな理由です。そして近年、全文が公開されました。(蜩c甫「『大鳥太神宮并神鳳寺縁起帳』の翻刻とその史料的考察」(『国学院大学大学院紀要 -文学研究科- 第四十五輯』 2014年)。その結果明らかになった事は、この縁起、つまり神社の由来の続きに、「弘法大師の曰く」として「天照大神とは何であるか」という解説がついている、ということです。もちろん弘法大師空海が実際にこんなことを言ったという証拠はどこにもなく、仮託された「偽書」なのですが、これが斎宮と関係するのです。
 この「縁起帳」には両部神道(真言宗系の影響を受けた神仏習合の考え方、真言宗では、世界は胎蔵界、金剛界の二つの曼荼羅世界(部)で構成されており、その中心にいる最高の仏が大日如来とする。両部神道では、胎蔵界の大日如来は伊勢内宮、金剛界の大日は伊勢外宮として、両者の立場を対等とする所から、「両部」という)の独自解釈が強く見られます。もともと大鳥神社は、古代には大鳥連というこの地域の有力氏族の氏神だったはずなのですが、ここでは天照大神と出雲大社を祀るものとされています。そして本来の両部神道とは違い、伊勢が太陽で胎蔵界、出雲が月で金剛界曼荼羅に対応するという説明になっているのです。そして興味深いのは、天照大神の説明の中に見られる次の一文です。

「第十一垂仁天皇の御時、初めて斎宮女御を別御室にて祝ひ奉る。この室に(天照大神)が入らせ給はんとては、御冠装束は俗の姿にて入らせ給ふ。必ず三枚の鱗を落とす。これを大唐櫃に取り入る。この櫃入り満たむ時は、世の中滅ぶべしと云々」
 つまり、垂仁天皇の時以来「斎宮女御」が特別な部屋で神宮を祀るようになり、その部屋へは貴族のような姿で天照大神が入り、そこでは必ず三枚の鱗が落ちている」というわけです。いうまでもなく「斎宮女御」は、平安時代中期の斎王、徽子女王のことですが、ここでは垂仁天皇以来あった一つの役職のように書かれています。そして垂仁天皇云々は、『日本書紀』で伊勢神宮を開いたとされる倭姫命の記事に基づくものですから、斎王についてかなり情報の混乱が見られます。そして斎宮は「別御室」という形でしか出てこず、斎宮という言葉についても正しい理解がなされていないようです。そして興味深いのは、「斎宮女御」という言葉が「斎宮にいる(神宮の)女御」という意味で使われているように読めることです。
 実はこの話によく似た話が、鎌倉時代の僧で、神宮祭主の大中臣隆通の子である通海が神宮を訪れた記録『大神宮参詣記(別名、通海参詣記)』の中に出てくるのです。要約すると、
 「斎宮は皇太神宮の后で、夜な夜な通うので、斎宮の御衾には朝になると蛇の鱗が落ちているという人がいる。」
という噂です。
 通海はこの話について「信じがたいが、よくたずねられることがある、しかし決して正しい話ではない」と、厳しく否定していますが、当時この説がある程度知られていたことがわかります。大鳥神社の縁起帳で語られる「斎宮女御」は、「皇太神宮の后」と同じ意味で使われており、それは通海の記した「世間の人がよくたずねる」内容と重なるものではなかったかと考えられるのです。
参詣記が書かれたのは弘安九年(1287)の頃と考えられており、その頃斎宮の群行はもはやなく、斎王が選ばれても伊勢に来る事はなくなっていました。つまり斎宮寮のような官司も無くなっており、斎宮の記憶は急速に変化していたものと考えられます。そうした変動の中で、「斎宮女御」という言葉が一人歩きして、「女御なのだから神宮の后なのだろう」、と理解され、この不思議な言説が語られるようになったようにも思えるのです。

そして興味深いのは、これまで伊勢でしか確認出来ていなかった、天照大神が斎宮に通うという言説が、遠く和泉国でも知られていた、ということです。外宮祢宜たちの情報発信能力は鎌倉時代後期には、「伊勢神道」「度会神道」といわれる「神道」となり、神宮についての新たな解説を生み出し、中世社会にそれなりの影響力を与えますから、その直前の段階でも、このような情報が発信されていたのかとも思われます。また、特に大鳥神社周辺では真言宗寺院が多く、両部神道の影響は受けやすかった、と考えられます。真言宗系の寺院では意外に有名な話になっていたのかもしれません。
 そして「縁起帳」で興味深いのは、天照大神が斎宮に通うという伝説が「この鱗が大櫃に一杯溜まると世が滅ぶ」という終末観に発展していることです。
 斎王が終末観と関係については、かの長元四年(1031)の「長元の託宣」を記した『小右記』(藤原実資の日記)に、託宣した斎王よし(女へんに専※)子女王が、「すでに百王は半ばを過ぎている」と、天皇百代でこの世は終わる、という百王思想を持ち出したとしていることが思い出されます。しかしここでは、古い百王思想から離れ、神宮に関わるうわさ話がさらに発展した形で末法思想と結びつき、新たな伝説を生み出しているようです。また、神宮と蛇の関係については、『春記』(藤原資房の日記)長暦二年(1038)の良子内親王の群行記事の中で「赤い蛇」が神の使いか、と言われているのが初期のものではないかと考えられます。
どちらのうわさ話にしても、11世紀頃からある考え方が、おそらく13世紀頃に、こういう形に発展しているのが実に興味深い所です。
このように、遠く和泉国に伝わった文献から、平安時代に起源のある神宮のうわさ話が、鎌倉時代以降、新たな伝説として広まっていく様子がうかがえます。それは伊勢神宮や斎宮のイメージの変遷を考える上でも極めて面白い史料なのです。
 

※斎王よし子の「よし」の字

※斎王よし子の「よし」の字

榎村寛之

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