第55話  開館25周年・熊野古道世界遺産登録10周年記念特別展「伊勢と熊野の歌」 その2

 さて、「伊勢と熊野の歌」展のご紹介、後半です。
その4 二帖の歌集が約200年ぶりに再会します。
伊勢に関わる歌と熊野に関わる歌を代表する歌集として、『資経本斎宮女御集』(斎宮歴史博物館蔵)と『資経本増基法師集』(冷泉家時雨亭文庫蔵)を展示します。この二帖の歌集は、「資経本」という名前が重なっています。じつはもともとは同じグループに属し、同じ箱で収蔵されていた歌集でした。いつごろまで?鎌倉時代から江戸時代まで。どこに?藤原定家の子孫、冷泉家の文庫にです。
「資経本」は、鎌倉時代後期の永仁元年(1293)〜二年の年紀と、藤原資経という署名のある一群の歌集写本で、一括で重要文化財に指定されています。ところが「斎宮女御集」のみが江戸時代の副本を残して行方不明になっていました。斎宮女御は10世紀の斎王徽子女王(929〜985)のことで、帰京後村上天皇の女御となり、後年、娘の斎王規子内親王に同行して再度斎宮で暮らし、多くの歌を詠んだのはご存じの方も多いと思います。「三十六歌仙」の一人として有名な歌人でもあり、鎌倉時代の古写本は極めて貴重な資料です。ところが近年、その本が本館所蔵資料となったのです。
一方、このグループには、熊野とも実に関わりの深い歌集の最古の写本がありました、それが「増基法師集」です。増基は斎宮女御の一世代後、「中古三十六歌仙」の一人で、紫式部や清少納言の同世代人です。旅に生きた僧のようで、その歌集は紀行文形式をとる珍しい構成になっており、その中に、三重県の熊野古道を代表する奇勝「花の窟」の最古の記述があるのです。増基法師集は、「いほぬし」と題した江戸時代の写本が宮内庁書陵部にあり、熊野ファンには比較的知られた資料ですが、近年この「資経本」の調査から、宮内庁本は資経本の写しであることが確認されたのです。というわけで、資経本増基法師集は「花の窟」についての最古の記述がある本の最古の写しなのです。
 この二帖の歌集が、今回の展覧会の後期、10月21日(火)からおよそ200年ぶりに顔を合わせます。ポスターでは、斎宮女御集より「大淀の浦たつ波のかへらずは」、増基法師集より「心あるありまの浦のうら風は」の二首の上の句をご紹介しています。下の句はぜひとも博物館でご確認下さい

 

 その5 神と仏は同じもの、という熊野の信仰がわかります。
 平安時代中期以降、山岳信仰の修行場だった熊野に、怒濤のように都からの情報が流れ込みます。上皇の熊野御幸や貴族たちの熊野参詣、後の時代に「蟻の熊野詣」と呼ばれた熊野ブームが襲来するのです。そして都からの情報は熊野の信仰や文化を活性化させ、色々な新しい現象が生じました。その一つが、神仏習合の聖地としての熊野の発展です。
 もともと山岳信仰は、山を神の下りる場とする昔からの考え方と、深山で修行する仏教の考え方が結合したものです。いわば山岳信仰が大衆化した熊野の信仰には、最初から神にも仏にも通じる側面がありました。そのため、熊野では早くから、熊野の神は仏が姿を変えたものという思想が普及していました。熊野本宮は阿弥陀仏、新宮は薬師如来、那智大社は千手観音が正体だ、というものです。
 そして熊野信仰が洗練されてくると、熊野三山周辺の、古い信仰を持った神々にもこうした仏、本地仏が現れてきます。今回展示しているのは、そうした神社の一つ、新宮市の熊野阿須賀神社の境内遺跡で見つかった宗教遺物です。
熊野新宮の周辺では、熊野の古代信仰の痕跡を残した神社があちこちに見られますが、阿須賀神社はその典型の一つです。三重県から熊野川を渡ってすぐの和歌山県側、つまり熊野川の畔にあり、蓬莱山という神体山を信仰の対象としています。もともとはその周囲を熊野川がめぐっており、古代には川の中に山が屹立していたという、興味深い宗教空間を作っている神社です。伊勢路を通る参詣者も、紀州路を通る参詣者も、必ず立ち寄る所でもありました。
 この遺物の最も古いものは平安時代後期、12世紀頃の和鏡です。直径10センチメートル前後の小さいもので、その表面には仏の姿が刻み込まれています。ところが鎌倉時代、13世紀に入る頃には、鏡は直径20センチメートル程度まで大型化して、ただの銅の円盤のようになり、引っかけるための「つまみ」もつきます。つまり神社の壁に「ご神体」として掛けるものになっていくのです。その表面にはやはり仏の姿が刻み込まれています。さらに鎌倉時代中期以降になると、立体的な仏像を鋳造して、円盤の表面に貼り付けるというさらに手の込んだものに変わっていくのです。こうした宗教遺物を「御正体」(みしょうたい)「懸仏(かけぼとけ)」などといいます。

 さらにそこに描かれた仏像にも面白い特徴が見られます。阿弥陀如来や薬師如来が見られるのは当然として、大威徳明王(だいいとくみょうおう)や愛染明王(あいぜんみょうおう)といった明王像が見られるのです。明王は仏法を守護する神々で、たいていは不動明王のように極めて恐ろしい姿をしています。特に大威徳明王は、顔が三つに手が六本、足も六本という強烈な姿で、水牛に乗っているという造形です。この神が熊野阿須賀神社の本地仏とされていたのです。
 また、新宮市には神倉神社というこれも有名な神社があります。三百段ほどの石段を登った上にある神社で、ご神体はゴトビキ岩と呼ばれる、山上いっぱいに広がるかのような巨岩です。神倉神社の名は、「神の座」の意味で、この巨岩を祭る古代信仰に基づくものと考えられています。この神社の本地仏は愛染明王です。つまり、地域で古くから信仰されてきた神社が「うちは明王」という自己主張を始めるのです。
 平安時代後半以降、熊野はこのような新しい主張を次々に発信するようになっていました。熊野の神と伊勢の神が同じものだとする伊勢熊野同体説や、「熊野御垂迹縁起」という資料が主張する、熊野の神はもともと唐の王子だったという説、さらに鎌倉時代になると、熊野はもともと天竺(インド)にあったマガダ国の王子だったという「熊野縁起(熊野の本地)」という語り物の神話が広く知られるようになっていきます。
 今回の展示では、阿須賀神社境内で発見された御正体や熊野縁起(前期のみ)、そして伊勢熊野同体説を審議した「長寛勘文」という資料などで、こういった熊野の神仏習合文化を紹介しています。

 このように、「伊勢と熊野の歌」は、和歌というツールを生かして、様々な聖地の文化の展開を紹介する展覧会で、最後には、伊勢と那智の参詣曼荼羅も皆様をお待ちしています。
 秋の深まる時候の良い季節、博物館の側を流れる竹川(祓川)をとりあげた歌を最後にご紹介いたしましょう。
  もみじ葉の流るる時は竹河の淵の緑も色変わるらん
           凡河内躬恒
 そんな季節までもう少しです。

榎村寛之

ページのトップへ戻る