第52話  斎宮の西に広がる未知の空間、朝見遺跡と的形の浦〜とれたての和鏡を見に来ませんか?

 斎宮跡という遺跡の発見と国指定史跡斎宮跡の指定の大きな意義は、斎宮跡という宮殿遺跡が、それまでの想定よりずっと巨大だった、ということを明らかにしたことだと思います。なので斎宮跡の範囲を示して「大きいですね〜」と感嘆していただくのは嬉しいのですが、反面少しもったいないな、と思うこともあります。それは、斎宮を支える範囲が、実はもっと広かったかも知れない、という可能性に気づくことを妨げてしまっているんじゃないか、という懸念なのです。
 斎宮跡の史跡指定範囲の外側にも、斎宮に関わる伝承地や遺跡はじつはあちこちにあります。まず『伊勢物語』に関わる所としては、在原業平が尾張に旅立ったとされる港「大淀」が何と言っても有名です。『伊勢物語』以来、斎王の禊にも関わる歌枕として都にも知られ、色々な歌が詠まれていたことについては、以前にも触れたことがあります。
 史跡にもっと近い所では、たとえば史跡の少し東には「丑寅神社」という神社跡の石碑があります。この神社は斎宮の鬼門、つまり丑寅(東北)を守る鎮守として造られたという伝承があり、実際斎宮の内院区画、例えば現在の竹神社などからは東北方向に当たります。史跡の西、史跡範囲の北西に隣接するあたりの祓川の河畔には、馬渡という地名があり、明和町のポンプ場を建設した際、平安時代の緑釉陶器や墨書土器が発見されています。馬渡の地名が平安時代の渡河点と関わるのであれば、たとえばこのあたりに川湊があり、斎宮に山から運ばれる建設用材や、海から運ばれる物資、例えば尾張産の緑釉陶器などが荷揚げされていた可能性もあるわけです。
 このように、国史跡斎宮跡の範囲より外側にも、斎宮関連遺跡が広がっていた可能性は極めて高いのですが、今回はその中で、二つの面白い所をご紹介しましょう。

 まずは朝見遺跡です。
 近鉄で斎宮から松阪寄りに二駅、櫛田という駅があります。文字通り、斎宮西側の大河で、史跡西限の祓川の本流にあたる櫛田川の氾濫原の中にある駅です。その近く一体には条里遺構も散在しており、比較的よく古環境が残っている地域です。朝見遺跡はその中で発見された遺跡で、特に注目されているのは平安時代の遺構です。
 この遺跡は田園風景が広がる中で部分的な調査が、三重県埋蔵文化財センターによって行われているのですが、建物跡などはきわめて少ないのに、平安時代の溝から、緑釉陶器、灰釉陶器、墨書土器や、ひらがなを書いた土器など、単なる農村遺跡では見られないような遺物が数多く発見されています。そして櫛田川氾濫原は、神宮領の神郡である多気郡と一般の郡(ただし、九世紀末には神郡となります)の飯野郡の境界にあり、櫛田川が氾濫して流れが変わると、郡境も変化したという記録のある地域です。というあたりから、もしかしたらこの遺跡は、斎宮寮が管理する田畑などに関わるもので、斎宮の出先機関があった所ではないか、とも考えられるのです。 
 その遺跡から今夏、大きな発見がありました。溝の中から三面の平安時代の和鏡が発見されたのです。
http://www.pref.mie.lg.jp/TOPICS/2014080293.htm

 平安時代の鏡は、それこそ古墳時代以来、神祭りや副葬品として使われてきた鏡の歴史を踏まえ、貴族や有力者の高級な調度品としても重宝されて、デザインや大きさにも日本人の感覚にあったものに変化していきます。和鏡と呼ばれる四季の風光や花鳥を文様にした鏡はそうして考案されたもので、有力者の墳墓や、11世紀以降に数多く造られた経塚などからも出土することが少なくなく、当時の人々の精神生活をうかがわせる貴重な資料となっています。
 そんな和鏡が溝の中から見つかったのです。とても単なる遺失物とは思えません。おそらく農業に関わる何らかの祈願をするために埋納したものなのでしょう。そんな鏡を奉納できる人となれば、まず考えられるのは都と一体になって運営されていた斎宮関係者が候補としてあげられます。つまり和鏡の発見は、朝見遺跡が斎宮関係遺跡である可能性を、大きく一歩前に進めるできごとだといえるのです。
 そしてこの朝見遺跡の遺物は、秋の特別展「伊勢と熊野の歌」に先駆け、斎宮歴史博物館のエントランスホールで、9月7日(日)から9月15日(月・休)まで展示されることとなりました。発掘されたばかりの資料の公開はかなり希なことですので、この機会にぜひともご覧下さい。

 二つ目の名所は、櫛田川流域の海岸線にあります。櫛田川の氾濫原には古くから多くの支流が広がっており、現在の集落もそれらが造った自然堤防の上に立地しています。そうした小河川の一つに中の川という川があり、その下流の黒部と呼ばれる地域にある河口部には小さな浦が広がっています。古代とはおそらく地形も海岸線も大きく変わっているでしょうが、このあたりが『万葉集』以来、歌枕として知られ、『伊勢国風土記逸文』にもその名が見られる「的形」だったのです。

『万葉集』には、持統天皇の三河行幸に関わる歌として
  ますらをのさつ矢たばさみ立ち向ひ射る的形は見るにさやけし 
舎人娘子(万葉集巻1−61)
があります。的形とは、矢を当てる的のような形の潟、つまり入り江の意味で、当時は港とするのに絶好の条件の地だったようです。おそらく伊勢から三河に渡る波静かな良港の一つとして重視されていたのでしょう。
また『古今和歌集』の編者の一人でもある九世紀〜十世紀の歌人、凡河内躬恒が斎宮を訪ねた時、斎宮周辺の地名を折り込んだ連作和歌を詠み、その中にも
  あずさ弓射る的形に満つ潮の昼はありがたみ夜をこそ待て  (凡河内躬恒集158)
 という歌があります。的形は、奈良時代から平安時代にかけて斎宮にほど近い景勝の地として知られていたようです。
 もともと櫛田川自体も、伊勢神宮の領域と公の郡を分かつ川の一つというイメージがあったようで、その流域に近い斎宮とは、様々の形で斎宮と深く関わる地域だったようです。
 現在の的形は、海岸線の変化や開発の進展により、往古の姿をうかがうには少し寂しい状況になっています。しかし河口部に開いた小さな湖のような潟に小舟が係留されている様子は、1000年以上昔の港の雰囲気をわずかに残しています。
 斎宮は斎宮跡だけではなく、その周辺の環境と一体になって、伊勢の地に栄えていた、そういう組織だったのことを、斎宮の周囲の環境が教えてくれるのです。

榎村寛之

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