第53話  『大和物語』に見る都と斎宮のネットワーク

  『大和物語』に見る斎王と都のネットワーク
 斎宮歴史博物館の今年の古典文学講座のテーマは『大和物語』です。『大和物語』は『伊勢物語』と同じく歌物語(和歌をメインに据えた短編集)ですが、宇多天皇とその周辺の人々のエピソードが多く、在原業平のような、イケメンの主人公がいるわけではないので、どうしても知名度では一段落ちます。しかし個々のエピソードにはなかなか興味深いものがあるのです。今回はそんな中からひとつ。
 平安時代前期の斎王に、柔子内親王(?〜959)という人がいます。宇多天皇の娘で、897年から930年まで足かけ34年も斎王を務めた人で、これは斎王在任の最長記録となっています。彼女は892年に内親王宣下を受けていることから、この頃の生まれと想定されているのですが、だとすれば、数え6才から39才まで斎王でいたことになります。
 ということになれば、人生の最も大事な時期を斎宮で過ごしてしまったこの人は、都に帰っても全く馴染めなかったんじゃないか、と心配したくなります。
 ところが柔子内親王については、『後撰和歌集』恋の二部にこんなエピソードがあります。
    式部卿あつみのみこしのびてかよふ所侍りけるを、のちのちたえだえになり侍りければ、いもうとの前斎宮のみこのもとよりこのごろはいかにぞとありければ、その返事にをんな
  しら山に雪ふりぬればあとたえて今はこしぢに人もかよはず
あつみのみこ、とは宇多天皇の皇子敦実親王(893〜967)という人で、柔子内親王や醍醐天皇(885〜930)とは同母兄弟にあたります。この人が忍んで通っていた女性がいたのですが、しだいに訪れが途絶えがちになったところ、「前斎宮」、つまり柔子内親王から、このごろはどうですか、と便りがあったので、
 白山に雪が降ったら人の足跡も消えてしまい、今は越の国への路に人が通わないように、あの人も私の所に越してこないのです。
という歌が返された、というのです。弟の恋人に、うちの弟とこのごろどうなってるの、とたずねている感じですね。
ところでこの歌は色々と深いのです。
 まず、この歌と同じ歌が『大和物語』の第九十五段に見られるのですが、それによると、この「敦実親王の彼女」は「右のおほい殿の宮すむ所」で、帝が亡くなった後に式部卿宮がその邸に住むようになったのが、どうしたわけかいなくなった頃に送った文への返歌となっています。右のおほい殿は右大臣のこと。「宮すむ所」は「御息所」のことで、天皇や皇太子の子供を産んだ女性(『源氏物語』の六条御息所の「御息所」ですね)のことです。つまり右大臣にゆかりのあるお妃ということになるわけです。

 右のおほい殿は右大臣藤原定方(873〜932)と考えられます。定方は醍醐天皇の母、藤原胤子の弟で、柔子や敦実叔父にあたります。その娘藤原能子は醍醐天皇の女御で「右のおほい殿の宮すむ所」はこの人だということになります。つまり敦実は、従姉妹であり、兄の醍醐天皇の妻でもある能子と恋愛関係にあった、ということになるのです。このあたり平安時代の宮廷はかなりおおらかです。
 たとえば唐の場合だと、皇帝が亡くなったら後宮にいた女性たちは尼になったり女道士になったりして、世間から離れてしまいます。皇帝の弟であったとしても、亡兄の妻と通じるのはよほどの覚悟の必要なことです。しかし日本の場合では、たとえば宇多天皇の妃の藤原温子に仕えた女房から、「伊勢の御」と呼ばれる後宮の人となった女流歌人の伊勢(伊勢御息所)は、天皇がなくなった後、宇多の子でやはり醍醐天皇の同母弟の敦慶親王と再婚し、中務と呼ばれた娘をもうけています。このように、天皇に愛された女性に言い寄ることは決して珍しくありませんでした。しかし伊勢は特に身分を持っていませんでしたが、藤原能子は女御、天皇の正式な妃だったのです。う〜ん、光源氏と朧月夜(源氏の兄、朱雀院の恋人)の関係を思わせるエピソード。
そしてこの柔子内親王の歌からは、敦実の同母の兄弟姉妹が、藤原能子の方に歌を送っていた、つまり全部知っていた、ということがわかります。中でも柔子は敦実と三十年近くも離れていたのに、本人やその恋人(しかも元は父の妻)とも親しい関係だったわけですね。このネットワークを理解するには、醍醐、敦慶、敦実、柔子、そして藤原能子が全員藤原高藤の孫、つまり「勧修寺流」藤原氏に属する人々だったことが重要なのでしょう。おそらく伊勢にあった柔子を陰で支えていたのは、母の藤原胤子につながる右大臣定方、中納言兼輔、朝忠といった勧修寺系藤原氏の面々であり、父方の兄弟、母方の従姉妹などのネットワークの中で、柔子は常に都とのつながりを続けていたものと考えられます。

関係系図

関係系図

 さて、藤原能子と敦実親王の恋は長く続かなかったようで、この歌は二人の関係が切れかけた頃の歌と考えられています。その後、能子は関白藤原実頼と結婚しており、未亡人の恋愛や再婚が決して珍しいことではなかったことが、ここからもわかります。
 とすれば、光源氏と六条御息所(先の皇太子の未亡人)の恋は、決して不道徳なものではなく、御息所との再婚、というゴールインもあり得た、ということなのですね。
敦実親王は音曲に優れた人で、琵琶の名手と伝わる蝉丸は、彼の家人だったとも言われています。そして興味深いのは、その正妻が藤原時平の娘だということです。時平は菅原道真の祟りで若くして死んだと噂された左大臣で、その子孫はまもなく衰退していきます。しかし敦実親王には源雅信という子供がいました。雅信も左大臣まで上った貴族ですが、実は彼より有名なのはその娘、源倫子です。源倫子は藤原道長の正妻で、彰子、頼通、教通の母、つまり御堂関白と呼ばれた藤原道長政権を陰で支えた功労者なのです。そして藤原頼通は、藤原時平の孫である源雅信の孫となるわけです。こんな所に藤原時平の血統が生きていたとは少し驚きです。
なお、敦実親王は、光源氏のモデルの一人とも言われているようです。
 
 

榎村寛之

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