第51話  源頼朝と斎宮についての書状

 斎宮千話一話 久しぶりの更新です。
ここに一通の書状があります。内容はだいたいこんな感じです。

 斎宮寮に東国から納める物の注文リストを送ります。この注文は斎宮寮より提出されたものです。それで処理しようと思ったのですが、細目がよくわかりません。また、うちの事務局にも細目帳があるのですが、一つ一つの項目はよくわからないので、飛脚を使わして命令します。この注文リストについての一つ一つの詳しい情報を、先例によって検討して連絡して下さい。またこの中で現在ある物についても、その内容を明確に記して下さい。いろいろよろしくお願いします。
  文治三年十一月九日 花押
 山城介殿
                (鎌倉遺文第282号文書 埼玉県 遠山記念館蔵)
 文治三年は1187年、壇ノ浦で平家(桓武平氏清盛流とその与党)が滅亡してから2年後のことです。そして実はこの文書、源頼朝の書状なのです。
 宛先の山城介が誰かはよくわかりませんが、平安時代末期の山城介は、大江氏とか三善氏とか、代々宮廷に仕えた文官、つまり事務官僚たちが務める役職になっていました。山城は京のお膝元ですから、行政はまだまだ空文化していなかったわけですね。とすれば、この文書、頼朝が宮中に宛てた質問状と考えられます。
 さて、源平の合戦さなかの1184年、源頼朝には東日本を中心に知行国、つまり行政支配権だけではなく、国司の人事まで委託され、部下を自由に任免できる国が認められます。これを通称関東御分国といい、実質的な鎌倉幕府の発足と言われています。『延喜式』と対応させると、関東御分国と確認できる国で、斎宮に税の一部を出していた国は次の通りです。
 三河・駿河・伊豆・相模・上総・信濃・下総
 斎宮に税を納めていたのは全部で18カ国でしたから、その半分近くが関東御分国となっていた、ということになります。時期は後鳥羽天皇が即位して、高倉天皇の娘で天皇の異母姉、潔子内親王が群行した年でした。
 じつはこの群行、嘉応二年(1170)以来の斎王群行で、斎王が伊勢に滞在するのは承安二年(1172)以来のことだったのです。つまり十五年ぶり。
 承安二年、高倉天皇の代の斎王、惇子内親王が斎宮で急死し、次の功子内親王は群行前の治承三年(1179)に母の喪で退下、そして時代は治承・寿永の乱、いわゆる源平合戦の混乱に突入し、斎宮どころではなくなってしまっていたのです。
 そして社会が落ち着きを取り戻し、斎王制度も復活したわけですが、斎宮を維持していく経済基盤は半分ほど関東に取られていました。そこで朝廷が協力を依頼し、それに対する頼朝の返事がこの書状ということになるのでしょう。

 しかし、荘園制や受領制によって地方支配がいわば現地に委託されるようになった10世紀以降、律令制的な税を納める体制はすっかり崩れていたはずで、これらの国が税を斎宮に送っていたとはとうてい思えません。その中でこの頼朝の処置は、かなりの大サービスだと思われるのです。
では、斎宮の復活に源頼朝がなぜそこまで関わったのか、どうもその背景には、当時の伊勢国をめぐる複雑な事情が絡んでいるようです。
近年刊行された『伊勢市史 第二巻 中世編』によると、源平合戦の頃、南伊勢地域は平氏の勢力の強い所だったようです。治承五年(1181)には源氏に味方した熊野三山の「悪僧(武装した僧侶)」の水軍が伊勢志摩を襲っており、同年に行われた墨俣渡し(現・岐阜県)の戦いでは、伊勢国から大量の船が挑発されたとしています。
 こうした平家に与した在地武士の代表的な人物に、平信兼という人物がいます。その息子は平兼隆、通称山木判官といい、ある事件に関わり伊豆国に流された後、伊豆國の知行国主となった平氏一門の平時忠の目代、つまり現地代理人となり権力を奮いました。そして流人源頼朝は、旗揚げの血祭りとしてこの兼隆を襲ったのです。頼朝に、伊勢は平家支配の強力な地域というイメージがあったとしても不思議はありません。平信兼に限らず、伊勢国の各地で伊勢平氏と称する一団が勢力を保持していたのは有名な話で、源平合戦終結後も、元久元年(1204)の三日平氏の乱をはじめ、反鎌倉の動きが長く見られました。
そして斎宮もまた、平家と深く関わる地域でした。伊勢平氏の中央進出のきっかけとなったのは、平正盛(清盛の祖父)が、元斎王の郁芳門院やす(女偏に是)子内親王の菩提を弔うために改修された六条院に伊賀国の所領を寄進し、白河上皇の信任を得たことでした。また、仁安二年(1167)年には、平行光という人物が、斎宮寮の四保内の溝隍(ほり)二十余町を開削したことの功を申請する史料が見られます(『兵範記』裏書)。彼の系図などはよくわかりませんが、斎宮のある多気郡に勢力を持っていた地域豪族と考えられます。伊藤裕偉氏は、「斎宮の中世的展開」(『明和町史 斎宮編』 2005年)で、十一〜十二世紀の斎宮と平氏が深く関係していたとしていますが、まさにその通りでしょう。
一方前述の『伊勢市史』には、頼朝が伊勢神宮に神領を寄進し、その窓口として外宮権祢宜の相鹿光倫という人物を口入神主として、祈祷や神官との折衝に当たらせたことが記されています。また、その御家人で、相模国に勢力を張っていた波多野氏は神宮祢宜の荒木田氏との婚姻関係があり、伊勢にも所領を持っていたことも指摘されています。平家色の強い伊勢地域ですが、かならずしも平家一色ではなく、色々な勢力がパッチワークのように各地の盤踞していたようです。このような状況では安定した地域支配はなかなか難しく,例えば斎宮に対する税の納入なども、平安時代後期にはかなり衰えていたことが推測できます。
源頼朝が斎宮寮に送る税の制度を再興しようとしたのは、このような状況を踏まえ、関東の勢力を伊勢に及ぼすためだったと考えられます。もしも税制が回復すれば、関東御分国から伊勢に定期的に、税の輸送のためと称して武士団を派遣でき、地域との関係を強くしていくことも可能でしょう。そして不安定な伊勢国を安定させ、神宮や朝廷に対しても恩を売ることができることになります。
 頼朝による斎宮への援助は、そこまで考えてのことだったのかもしれません。なお、この調査に基づいて斎宮の税制がどの程度回復したのか、詳しいことはわかっていません。

榎村寛之

ページのトップへ戻る