第49話  斎王は明るい時の人?

 神宮遷座も無事終わり、遷宮儀式もクライマックスを過ぎた感のある伊勢です。
 今回は各テレビ局や、地元ケーブルテレビの取材もあり、地元にいておりますと各種テレビを比較しながら見ることもできて面白かったのですが、特におやっ、と思ったのは祭主代行として黒田清子さんが遷座儀に参加していたこと。
 祭主は戦後に、明治以来の男性皇族から女性の元皇族に替わり、外観的には昔の斎王に近い形になったのですが、前回にも述べましたように、斎王は遷座儀には参加していませんでした。祭主は大中臣氏の貴族が務めていた時代から遷座祭に参加していましたので、おそらくその形を引き継いでいるのでしょうね。
 さて、それで気になったことが一つあります。
 斎王って、何時から何時まで神宮にいるんだろう?
 遷座前の太玉串を捧げる行事では、巳時に入っていました。つまり午前9時から11時の間ですね。
 では普段の祭ではどうか。6月月次際の場合、『皇太神宮儀式帳』では、午時に参入するとあります。一方『止由気宮儀式帳』では、朝から準備が始まり、次に斎王が参入するとあるのみで、具体的な時間は記されていません。
ところが『延喜斎宮式』の6月の儀式次第では、朝饌の後、斎王は度会宮(外宮)に参るとしており、『太神宮式』では「平旦」としています。「平旦」とは夜が明けた頃なのですね。
 次に9月神嘗祭ではどうかというと、『皇太神宮儀式帳』では、辰時に諸国からの贄や懸税稲という新米が奉納され、その後、やはり午時に斎王が参入するとしています。一方『止由気宮儀式帳』では、諸準備が整い、懸税稲と抜穂稲と呼ばれる新穀が奉納された「その時」に斎王が参入するとしています。
 午時は午前11時から午後1時頃、辰時は午前5時から午前7時頃にあたります。また平旦については、午前4時頃を指すという説もあります。

 このように史料によって、斎王が神宮に到着する時間には、微妙な差があるのです。
  整理してみると
@ 『皇太神宮儀式帳』  午後0時(お昼)の前後
A 『止由気宮儀式帳』  朝の諸準備が終わった頃、午前中だと思われる。
B 『延喜式』      朝食の後外宮に向かう、朝早く。
 こんな感じになります。
この中で朝廷が掌握していたのは、法の細則である『延喜式』なわけですから、建前としてはBになります。Bは先に祭が行われる外宮の月次祭での儀式を基準に書いており、たしかにAとBは似ているのですが、問題なのは、内宮も同じだ、としていることです。つまり『延喜式』的には、斎王は内宮にも平旦に来ていることになる、ということです。このずれは何でしょう。
 一つ考えられるのは、離宮で朝食をとって出発、というのは外宮参宮でも内宮参宮でも変わらなかったんだろうなぁ、ということです。とすれば、外宮と内宮が直線距離にして四キロほど離れていることです。そして江戸時代までは、外宮から内宮に向かう道は今とは違っていたのです。現在の外宮から内宮に続く伊勢街道ルートは、古市から猿田彦神社前を通る「牛谷坂」ルートですが、この道は江戸時代に成立したもので、もともとは今の月読宮の方に出て、五十鈴川沿いに向かったらしいのです。このルートだと六キロほどはかかることになります。
 そして斎王の行列ですから、そそくさと進むはずはないわけで、おそらく3時間くらいは見ていたのではないか、と思えるのです。
 とすれば、仮に内宮到着が正午としても、外宮だと午前9時頃になるわけです。そして『延喜式』では、「当日平旦に斎王は度会宮(外宮)に参入する」と書いているだけです。
 もしかしたらこれは、
 早朝に斎王は食事を取り、外宮離宮を出発する(平旦)
 離宮から外宮までは4キロほどあり、宮川も渡るので、2〜3時間はかかる(午前中)
 内宮まではさらに6キロほどあるので、お昼頃になる(午刻)
という意味なのではないでしょうか。
 とすれば、参入のために離宮を出発するのは、午前6時とか7時とかになるので、立派な「平旦」になるのです。
 つまり、斎王の儀式行程をすべて記している『延喜式』は、斎王の参入儀式の開は、外宮・内宮関係なく、離宮を出発する「平旦」だ、としているのではないでしょうか。
 とすると、理念的には斎王は、夜明けと共に(12月の月次祭なんかはまだ暗かったかも)、儀式を開始する、ということになるのです。

 で、面白いなあ、と思うのは、『日本書紀』天武天皇元年(672)年六月丙戌(旧暦6月26日)に行われた、大海人皇子(天武天皇)による天照大神の遙拝との関係です。平安時代に編まれた『日本書紀』の注釈書『釈日本紀』に引用されている『安斗智徳日記』には、この拝礼は辰時に行われたとあるのです。
 つまり午前7時頃から9時頃までの間。だいたい早朝と呼ばれる時間帯。そりゃそうですよね、太陽拝むとしたら、まさに日の出の時間に拝むのが一番効果的な演出になりますから。そしてこの後、大海人皇子は桑名の郡家に入り、翌日には美濃の不破、つまり今の関ヶ原あたりに向かいます。つまり太陽に背を向ける訳ですね。まさにそのターニングポイントで拝礼が行われたのです。
 この意識、斎王の拝礼にも反映されてないかしら。
 伊勢神宮の祭祀は、一日目の夜と二日目の日中に行われます。一日目は正殿(神殿)の床下に深夜と早朝、朝夕大御饌という食事を差し上げる儀礼で、これには斎王は参加しません。斎王の参加はあくまで日中、つまり明るい時間帯の祭祀に限られているのです。とは言っても、斎王の祭祀がオープンだったとは思えません。おそらく斎王の姿は、輿の中や遮蔽具の陰でほとんど見えなかったでしょうし、現代のように、神嘗祭や月次祭を沢山の人が見学することなどもほとんどあり得なかったはずです。
 つまり斎王は、見える時間帯に隠されて通る存在だった、ということになるのでしょう。それって、ある意味身分の高さの証明みたいにも思えますよね。


榎村寛之

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