第46話  斎宮と鮭

 日本最初の洋画家といわれる高橋由一(1828〜1894)に「鮭」という作品があります。縦長の構図で、上から吊されて赤身の一部をさらしている鮭の姿を描いたものです。どこで知ったのかは全然記憶がなく、誰の絵かもうろ覚えだったのですが、なぜか強く印象に残っています。近代絵画としては珍しく重要文化財に指定されているので、ご存じの方も多いのではないでしょうか。
 この「鮭」は干鮭を描いたものです。やはり鮭といえば、新巻鮭のような、贈答もできる保存の利く魚、と思うのは私だけでしょうか。生の鮭が普通に流通したり、鮨ネタになったりしたのはどうも最近のような気がします。
 ところで、鮭というと、北海道でおなじみのヒグマがくわえている木彫りの人形など、北の魚、というイメージがありますね。ところがこの鮭は、斎宮にも少し縁があるのです。
 9世紀の法制書『延喜式』の「主計式」に記された税の一種、中男作物(17才から20才の男子に課された税)のリストによると、鮭を納める国は、信濃、越中、越後の三国にすぎません。一方、宮内省式の諸国例貢御贄(特定の国々が新鮮な特産品を天皇の食事のために貢納する税の一つ。大化前代の税制に由来すると考えられている。)によると、若狭、丹後、但馬が「生鮭」を出しています。これらの国は、京に近い日本海側の川に遡上してくる鮭を加工せず、随時送っていたことがわかります。では遠国の場合はどうしていたのか、「内膳式」の供御月料、つまり天皇の食事として供されるものから拾うと、鮭は信濃、越後が楚割、若狭、越前、丹後、但馬、因幡が生となっています。つまり、北陸以北の遠国では、開いて干した楚割にしていた、ということです。保存食としての鮭の伝統は相当に古いことがわかります。
 さて、ネットで検索したところ、現在も鮭が遡上してくる川は、太平洋側では利根川以北、日本海側では北九州まで広がるようですが、漁業として成立するのは、石川県・茨城県以北です(水産総合試験センター、北海道区水産研究所ホームページによる)。
 しかし平安時代には、陸奥や出羽はこうした海産物を安定して供給できる国ではなかったので、この地域で現在でも産業になるほど獲れているのは越中・越後くらいです。これらの国では大量に獲って保存加工して都に送っていたのでしょう。一方京に近い山陰地方では、それほど獲れるわけではない季節物の珍しい魚だったので、新鮮さを追求して生ものを送っていた、と考えることができます。
 そして鮭は、日本海側に流れ込む川を遡上する魚、と意識されていたようです。つまり、太平洋側の国々とは関係のない魚だった、ということになります。

 さて、斎宮を支えていたのは、東海道・東山道の諸国から送られる調庸(本来調は一定のサイズの布で納める男性に賦課された税、庸は都での労働を挑発する税だがいずれもその国の特産品の収取や製造で替えることができた。この場合の調庸は、特産品を貢納する税と理解できる。)でした。つまり日本海側諸国は斎宮とは関係を持たないのです。だから斎宮と鮭とは関係がないのかというと、そうではないのです。
 実は斎宮では、毎年楚割鮭120隻が信濃国から送られていました。信濃国は東山道で唯一鮭が獲れる国だったのです。この鮭は、信濃川を遡上してきたものと考えられますから、日本海の鮭が長野県で加工されて斎宮に送られていたことになるのです。長い旅をしてきた鮭だったのです。
 さて、この鮭は調庸の一部として獲られたとなっていますが、先に見た規定では信濃の鮭は中男作物として出すことになっていました。もしかしたら特に斎宮用に調として獲っていたのかもしれません。
 そうでなくとも、わざわざ干物にして信濃国から運んでくるほど、鮭は必要とされたのでしょうか。もしかしたらそうなのかもしれない、という記事が斎宮式の中に見られています。それは、七月節について書かれた箇所です。七月節とは、七月七日節、今で言う七夕のことです。
 この時には、官人以下の料として「鮭二十隻と熟瓜(正確には「草冠に瓜」)百顆」が書かれています。七月にはこれらのものが斎宮の官人以下の人たちに支給された、ということです。ところがこの七月節には注があって、「九月もまた同じ」としているのです。九月節とは九月九日、重陽の節句のことです。星祭りの七夕と菊祭りの重陽で同じ食べ物を?
 この熟瓜とは「ほそち」、と読み、マクワウリのことだそうです。マクワウリは旧暦七月ごろに収穫されるので、平安時代には九月、つまり十月中旬まで保存するのはおそらく無理だったでしょう。事実、宮中の節会での食べ物についての『延喜大膳式』の記録では、熟瓜は七月節にしか見られません。そして瓜は七夕とは関係の深い食べ物なのです。
 中世の資料ですが『天稚彦草紙』という本では、天の川は天の鬼王が投げた瓜が割れて出来て、恋する男女を引き離したのだ、という記述があり、瓜と天の川については、ほかにも各地の言い伝えで見ることができます。つまりマクワウリは七夕につきものの食べ物だから配られていたと考えられます。

 それに対して鮭はどうか。『大膳式』の七月節には鮭はありません。いくら干鮭でも最も暑い旧暦七月まで持たせるのは、平安時代では少し厳しいのではないでしょうか。一方九月節では、文人、つまり宴会の席で漢詩を読む人たちに支給される食べ物の中に鮭が見られるのです。漢詩を読むことは宮中の重陽の重要なイベントでした。
 もしかしたら、並べて書いているけれど、斎宮でも七月は熟瓜、九月は鮭と使い分けていたのではないかと思われます。
 鮭が何かの節句にゆかりのある食べ物、という感覚は今の時代にはありません。歳暮の新巻鮭くらいでしょうか。しかし歳暮の新巻鮭にしても、今年獲れた鮭を保存食にして、初物的に贈答する、という感覚ではないのかな、とも思います。とすれば、旧暦九月、つまり今の十月後半に配られる重陽の鮭は、新鮭の干物ではなかったか、とも思われるのです。とすれば、今は伝わってはいないけれど、重陽の節句には鮭を食べる、という決まりが平安時代にはあったのかもしれません。
 菊の節句は今ではほとんど忘れ去られた節句で、菊を浮かべた菊酒や、菊の着せ綿と言っても、ほとんど通用しなくなっています。しかし斎宮で日本海側から上がってきた鮭を、獲れる南限でもある信濃国からわざわざ手に入れていたのは、もしかしたら鮭と平安時代の重陽が深く関係していたからかもしれないのです。

榎村寛之

ページのトップへ戻る