第45話  無名の斎王にもこれだけの人脈

斎宮千話一話 無名の斎王にもこれだけの人脈
 九世紀前半で最もマイナーな斎王に、淳和天皇の時代の二人目の斎王、宜子女王がいます。桓武天皇の皇子、仲野親王の娘、つまり淳和天皇の姪だった、ということまでしかわからず、生没年すら不詳。斎王を辞した後の暮らしなどももちろん資料がありません。
 淳和天皇の時代の斎王は、一人目を氏子内親王(?−885)といいました。この氏子内親王は、歴代斎王の中でも最も血筋がよい斎王です。父は淳和天皇、母は桓武天皇の皇女、高志内親王、つまり、異母兄妹の天皇と内親王の間に生まれたのです。こういう例は他には桓武天皇と酒人内親王の間に生まれた朝原内親王(『斎宮百話』第93話をご参照ください)くらいしかありません。そして高志内親王の母は、淳和の兄の平城天皇・嵯峨天皇と同じ皇后の藤原乙牟漏でした。つまり淳和天皇は、皇后の産んだ内親王に婿取られたおかげで天皇になれた皇子、ともいえるのです。しかも氏子には、恒世親王という同母兄弟がおり、こちらは淳和天皇が即位した時、皇太子に立てられています(何故か即日辞退して、嵯峨天皇の子、正良親王=後の仁明天皇が立太子しましたが)。
 このように華々しい経歴の氏子には、特別の斎宮が用意されました。群行に先立ち、多気郡にあった斎宮を、度会郡の離宮院、つまり宮川を挟んだ外宮の対岸に移転させたのです。この移転には伊勢神宮運営の主導権に関わるいろいろな思惑があったものと見られますが、氏子にとっては一年三回の参宮が「楽になる」配慮だったと言うことができます。ところが氏子は、天長二年(八二五)年九月に群行してわずか一年半もたたない同四年二月、病気のため斎王を辞退して帰京します。つまり神宮には、五回参詣しただけの斎王となったのです。斎王が病気で交代するのは極めて珍しいことで、しかも氏子はその後も長生きをしているので、何か背景があるのか、と勘ぐりたくなるような事件です。
その交代要員として同年に選ばれ、天長十年(八三三)の淳和譲位まで務めたのが宜子女王です。
 宜子もまた、度会郡の離宮に赴き、そこで暮らしています。度会の斎宮は十五年間続き、火災に遭って再び多気に戻るのですが、宜子女王がいたのは丁度その間のこと、ですから斎宮跡とも縁のない斎王です。そのため、発掘調査で宜子女王の頃の斎宮が明らかになる、ということは決してありません。名前以外の情報が、今後増えるとしたら、離宮院跡の調査を待たなければならない、ということになります。

 さて、このように地味な宜子女王なのですが、彼女には班子女王という姉妹がおりました。この班子の夫は時康親王といい、仁明天皇の第三皇子でした。本来ならば絶対に皇位が回ってこない立場の親王なのですが、いろいろな経緯から、時康は元慶八年(八八四)に、急遽譲位した陽成天皇に代わり、なんと55歳にして即位し、光孝天皇となってしまったのです。つまり宜子の義兄弟が光孝天皇、そして甥が宇多天皇になるわけです。光孝即位の頃にはまだ存命だったかもしれないので、大変びっくりしたことでしょう。そして以後の平安時代の天皇は、すべてこの親子の子孫となります、つまり宜子は、十世紀以降の天皇の主流に極めて近い立場の斎王だった、というわけなのです。
 そして光孝の時の斎王は、その娘(班子の子ではありませんが)の繁子内親王でした。この時に鈴鹿峠を越える東海道が開通しています。
 その鈴鹿と関連の深い伝説に「立烏帽子」の話があります。
『太平記』あたりを初出として、室町時代には、かつて鈴鹿峠に「立烏帽子」また「鈴鹿御前」と呼ばれる女盗賊がいた、という話が語られるようになります。この立烏帽子を下したとするのが「田村将軍」、つまり坂上田村麻呂です。ところがどっこい、田村麻呂は桓武天皇の時代の人ですから、彼の生きていた時代には鈴鹿峠は開削されていませんでした。つまりまあ、根拠の無い話なわけです。
 だけど、面白いなあと思うのは、田村将軍の別名に「田村利仁」という名がある、ということなのです。利仁といえば藤原利仁、芥川龍之介の『芋粥』にも出てくる、富裕な豪傑で、鎮守府将軍を務めたことから、「利仁将軍」といわれた人物です。
 この人の時には、鈴鹿峠はあります。つまり立烏帽子を退治できるわけです。
と言っても、本当にそんな話があった、と主張しようというのでは、もちろんありません。面白いのは、彼の息子に藤原叙用がいる、ということです。
 『斎宮百話』9,10でも触れましたが、藤原叙用は、十世紀に斎宮寮の長官、斎宮頭を務めていた人物で、斎宮の藤原氏ということから、その子孫が、斎藤氏を名乗るようになった、という人物です。
 で、この叙用の母は、輔世王という皇族の娘だったようです。つまり輔世王は、藤原利仁を婿取っていた、というわけですね。
 そしてこの輔世王が、仲野親王の息子、つまり宜子女王の兄弟なのです。宜子女王の兄弟の孫が、斎宮頭になり、斎藤さんの元祖となるわけです。
このように、宜子女王自体はごく無名なのですが、その甥の子孫から斎王が何人も出て、姪の子孫は斎宮頭を務め、その子孫から斎藤姓が生まれているのです。
無名の斎王とはいえ、後の時代とこの程度は関係しているのですね。これは斎王の重要性、というよりも、当時の貴族社会が、何とも狭い社会だったことを物語るエピソードでもあるのです。

宜子女王関係系図

宜子女王関係系図

榎村寛之

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