第44話  謎の「斎宮城」

斎宮駅から東の方に300メートルばかり行くと、竹神社があります。この神社は、現在整備中の新しい史跡公園の南側、近鉄線路を挟んだ所で、平安時代前期から末期にかけて、斎宮の内院が置かれていた所だとわかっています。斎宮内院自体の南北の範囲は線路をはさんで、最近再現された幅15メートルの斎宮区画道路まで、あの「いろは歌」ひらがな墨書土器は、この内院区画の北の端から出土しました。
 さて、この竹神社には、もう一つ別のことを記した案内が立っています。「斎宮城の跡」というものです。今回はこの「斎宮城」のことをお話してみようと思います。
 室町時代の後半、というより戦国時代の頃、この斎宮の地に「斎宮城」というお城があったのだ、という記録が残っています。それは『勢州軍記』という、寛永十五年(1638)に成立したという軍記(戦国時代の歴史読み物。江戸時代前半に多く作られ、現在の戦国時代イメージの基をつくった。『勢州軍記』は、津周辺の豪族、神戸氏の末裔と称する神戸良政という人物の著)で、斎宮城は弘治元年(1555)の事件の中にちらっ、とだけ出てくるのです。
 その内容は、
 弘治元年乙卯の年、冬十二月に、飯高郡鎌田(松阪市鎌田町あたり)の住人の豊田五郎右衛門尉という男が、多気郡斎宮の住人野宮三郎以下、南伊勢の在々處々のあぶれ者数百人と一味同心(結託して同盟すること)して、借物を破ろう(負債を力でなしにすること)と企み、徳政ノ乱(つまり徳政一揆=負債の破棄を要求する暴動)を発した。一味の者どもが馳せ集ってほら貝を吹き、ときの声を上げて、あちこちを焼き払い、斎宮城に籠もった(このあと伊勢南部の武士たちによって討滅された)。
 
 という内容です。
 この史料は、後世に色々な影響を残しました。
 『斎宮村郷土史』(斎宮商工会刊 1935年)は、20世紀前半の斎宮について記録された、貴重な情報集です。その中でも、この史料を紹介した上で、『伊勢軍談』(江戸時代の軍談書らしい)『具教記』(北畠最後の当主具教に関する資料らしいが不祥)等には、「野呂三郎」と出ているので、野呂が本当だろうとしています。
 そしてこの本では、現在の竹神社を斎宮城に充てて「境内の周囲にのこっていた土堤はこの城砦の土塁であった」としています。この説、つまり竹神社に斎宮城の遺構があるというのは、現在でもよく見られる説で、近年では、竹神社の中にある石垣が斎宮城の跡などという説明も見たことがあります(これは全く根拠がありません)。

 さて、現在の竹神社の場所は、1906年に始まる神社統合によって竹神社となった、神社としては比較的成立の新しい所です。江戸時代には、「旧地の森」また「野々宮」と呼ばれ、伊勢神宮の所管地で、斎宮村が管理し、斎宮の跡として黒木の鳥居が建てられていました。先の『斎宮村郷土史』の認識では、「野呂が立てこもった所に、斎宮ゆかりの「野宮」と間違えて(あるいは野呂がわざと誇張して)「野々宮」の名がついたので、地域の人も外来客も勘違いしてここが斎宮の旧地だと思い込んだ。そして神宮関係者や地誌・旅行記を書くような知識人たちもここが斎宮の遺跡だと勘違いして、祭を行うようになった」という歴史的経緯を想定しています。つまり、今の竹神社は斎宮城の跡で斎宮とは無関係、という見方なのです。近世末期以降、斎宮の遺跡は、今の「斎王の森」の所と見られていましたから、この説は自然に受け入れられていたようです。
しかし、実際の発掘調査では、今の竹神社は明らかに斎宮内院の遺跡だと確認できました。『斎宮村郷土史』が指摘する土塁は現在でもごくわずか見られるようですが、発掘調査では、平安後期の土塁の痕跡も確認されています。つまり、土塁があるから城だ、とは言えないわけで、竹神社が斎宮城として造られた城の跡だという決定的論拠は、実は崩れているのです。
 そして今一つ、斎宮城があった頃には、面白いものが斎宮にはありました。「斎宮関」、つまり関所です。神宮の神官であった度会氏経の書いた『氏経卿引付』の寛正四年(1464)五月二十六日条に出てくるもので、斎宮に二箇所置かれ、関銭(通行料)一人十二文を徴集したとされています。この時代の関は通行料を取るためのもので、置いたのは「柳原殿」と呼ばれる人物ですが、何者かはよくわかりません。
 中世の関所は、古代の鈴鹿関や江戸時代の箱根関のような立派なものではありません。せいぜい街道を遮断して、逃げ道もなくして関銭を出さざるをえなくするようなものと考えられます。その関が、室町時代のある時期、斎宮には二箇所も置かれていたのです。そしてこの史料には「関を撤廃したのに、元のように出来てしまった」意味のことが書かれているので、斎宮の関はそれより古い歴史があったものと見られます。
 これは街道を歩く多くの人々には大変な迷惑だったと思われますが、反面、その頃の斎宮が交通の要路だったこともうかがわせます。斎宮跡の東端には「斎宮絵馬辻」という辻があり、年末に絵馬が掛け替えられ、その色で翌年の農業の吉凶を占う、という風習がありました。人の往来が多い所だからこそ、絵馬を掲示したのでしょう。こんなことも、通行量の多い交差点ならではの特色だったと思われます。それほどに斎宮の地は、斎宮という施設が無くなっても、重要な所だったと考えられます。関や城が置かれたのも、そのためなのでしょう。
とすれば、二箇所あったという斎宮の関の一つは、この絵馬辻の周辺に置かれた可能性があります。
 そしてもう一箇所、それは、この関を置いた人物と関係がありそうです。実は、これから史跡公園が造成されるあたり、つまり、竹神社の北側の小地名(字名)は「柳原」といいます。もしかしたら、「柳原殿」が置いたもう一箇所の関は、まさに竹神社あたりだったのかもしれません。土塁などがあったなら、うまく利用すれば、関所には転用しやすかったことでしょう。つまり、「柳原殿の関があったので「柳原」という地名が遺った、あるいは、柳原あたりにいた土豪なので「柳原殿」と呼ばれたと考えることができるのです。
 もしもこのように考えられるとするならば、野呂三郎とその一党は、斎宮関の施設を利用して立てこもり、「斎宮城」を構えたのではないか、という想像もできます。中世末期の城は、山城のように自然地形を利用したものや、土塁や簡単な堀のあるようなもので、近世のような「お城」イメージのものではありません。斎宮城も、交通の要衝をバリケード封鎖したような、砦のような施設だったかとも考えられます。そのような施設が、既成の建物や施設を転用することは十分にありうるのです。
 そして、もしも、斎宮城が斎宮関の一つを転用したものであるとするならば、平安時代末期に放棄された斎宮内院は、その後に関所の施設として利用され、さらに斎宮城にも転用されて、近世には「野々宮」あるいは、「旧地の森」と呼ばれる、街道沿いながら森閑とした森になっていったのではないか、と思われるのです。
斎宮城や斎宮関は、斎宮の地がいつの時代も交通の要衝、文化の出会うところだったことを示しているのです。
 参考 小林秀「中世の斎宮」 『明和町史 斎宮編』(明和町 2005 明和町)
小林氏には、斎宮関史料についてのご教示もいただきました。

榎村寛之

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