第43話  琴を弾いた人

 八世紀から十世紀にかけて出された、律令の「令」を補う追加法に「格」があります。これらの格の内容は、『類聚三代格』という本で知ることが出来ます。古代の社会を知る上で極めて貴重な史料です。
 その巻四は「諸司の官員と廃止・新置を調節すること(加減諸司官員并廃置事)」についての格を集めたもので、その中に、斉衡三年(856)のこんな内容の文書があります。

太政官符(太政官の下達文書)
 白丁(民間人)を用いて伊勢大神宮の和琴生二人を置くこと
 右、神祇官の解(上申文書)があったので命令する。
神宮司が上申することには、「二所大神宮(伊勢神宮の内宮・外宮)は、祭の日の解斎(物忌みを解く儀式)の場で、諸司や斎宮の女孺らが集まって、次々に五節の和舞を供奉します。この時に多気郡・度会郡の神郡の住人で官位を持つ人から、琴を弾ける人を選んで供奉することになっていますが、今やその人がおらず、しばしば神事にも事欠いています。望む請う所は、笛生の例にならって、神戸の中で琴が弾ける者を選んで、ずっと専門の琴生としたい、ということです。」神祇官で重ねて検討を加えた結果、申請はもっともなことなので、太政官の裁定を願います。
右大臣(藤原良房)が命令する。勅(天皇の命令)を奉たところ、請願に依れ、とのことである。
   斉衡二年九月十五日
つまりこういうことです。
斎王が伊勢神宮に行く一年三回の重要な祭、三節祭の打ち上げでは、神宮や斎宮の役人や、斎宮の女孺らが集まって五節舞を披露することになっていました。五節舞は宮中の新嘗祭などでも行われる舞で、『本朝月令』という史料には天武天皇が吉野山で見た天女の舞だったという伝説があるように、女舞です。つまり主に舞うのは斎宮女孺だったと考えられます。

そしてこの舞の時に琴を弾くのは、神郡に住む役人身分の人の仕事だったのが、該当者がいなくなってしまったので、民間人から琴を弾ける人を選んで、和琴生、つまりプロの琴弾きを養成することにした、というのです。
これはなかなか面白い資料です。
 まず、琴を弾くことが、九世紀にはかなり限られた人にしかできない技術だった、ということです。
 もともと「こと」という楽器には「琴」と「箏」の二種類があります。
 琴と箏は厳密には全く違う楽器で、「きんのこと」「そうのこと」などと呼び分けることがあります。どちらも箱形の弦楽器ですが、琴は中国に起源がある胴がやや短めの「こと」で、七弦の楽器で、片手で糸の特定の場所を押さえながら音程を調節します。中国では君子の楽器とされ、日本でも男性貴族のたしなみとなり、『源氏物語』には、光源氏が須磨退去の時に、琴を持っていったことが記されています。しかしこの琴の演奏は、平安時代後期頃には途絶してしまったようです。
 一方箏は、現在もお琴を「箏曲」と言うように、長い胴に琴柱を立てて糸を張り、音程を調節する「こと」をいいます。和琴は、「琴」の字をあてていますが、厳密には「箏」の一種で、弥生時代や古墳時代の遺跡からも出土しているものなのです。
 和琴は正倉院の宝物にも見られ、現在の雅楽でも「東遊」などの伝統曲の他、高麗楽、唐楽などでも用いられており、それを改良したのが、現在の「お琴」になるので、大変息の長い楽器といえるでしょう。
 では、ここで見られた和琴生の規定からは、どんなことが考えられるでしょうか。この琴は五節舞に使われる、とされています。『本朝月令』では、天女が舞った時に琴を弾いたのは、他ならぬ天武天皇だったとしています。天皇が琴を弾くのは、中国的な統治意識の反映で、調和や平和を象徴する儀礼と考えられています。ならば、この琴は中国的な「きんのこと」が相応しいように思うのですが、実際には和琴だとされています。和琴が一般的なものなら、多分かなりの人が弾けたはずで、弾ける人がいなくなったり、養成したりする必要は無いはずです。とすれば、考えられるのは、和琴が時代遅れになり、弾ける人が少なくなっていたか、「五節和舞」の和琴曲が一種独特で、わざわざ伝授する必要があったか、ではないかということです。
 ところで、同じく『類聚三代格』には、四年前の嘉祥元年(八四八)年九月二日に、それまで宮中の雅楽寮にいた琴生十人を、二人に減らしたという記事があります。これは雅楽寮の雑色生、つまり歌舞音曲の係二百五十四人を百人にまで減らす、という大リストラの一環でした。宮中の楽隊がこれほど減員された時代に新規の琴生を置くということは、かなり切迫した事態だったのでしょう。
 五節舞は平安時代後期以降、中級貴族の子女が舞うものとして『源氏物語』などに出てきますが、このころには、内教坊(勤め始めた女官が最初に配属される役所、宮廷儀式で必要な女楽などを伝習させた)の舞人の仕事だったと思われます。そして内教坊の舞女は、宮中に勤めに出た地方豪族出身の女官、采女が最初に配属された所で、伊勢国飯高郡の出身で、最後は典侍従三位、つまり大納言級の身分に至った奈良時代後期の高級女官、飯高諸高も、内教坊から出世していったことがわかっています。おそらく斎宮で五節舞を舞った女孺たちも、同様の身分の女の子たちだったのでしょう。
 いずれにしても、神宮の祭で演奏され、斎宮の女孺が舞ったのは、伊勢地方では普段耳にしないような、少し変わった音楽だったからこそ、和琴の演奏家を養成する必要があったのではないでしょうか。




榎村寛之

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