第41話  意外なところにおまじない〜特別展『暦と怪異』にあわせて斎宮を歩いてみよう

 皆さまご存じの通り、斎宮は神祭りに関わる施設です。そのため仏教を近づけなかったことはよく知られています。しかしそれでは、陰陽道はどうでしょう。
 歴代最も有名な斎王、斎宮女御徽子女王と、歴代最も有名な陰陽師、安倍晴明は実はほんの数才違いの同世代人です。斎宮に関わる様々な占い、例えば徽子の娘の規子内親王の初斎院や野宮の撰定に関わる占いや、儀式の執行日時などの占いには関わっていたはずですが、その実態はよくわかっていません。
 しかし宮廷生活をしている以上、陰陽寮と全く無縁ではいられなかったはずです。例えば長暦二年(1038)に群行した良子内親王の時は、内裏で牛が死んだことから出発日が延期になり、新たに占って決めています。この占いには宮廷の陰陽師が関わっていたはずです。
 そして、斎宮にも陰陽道関係のグッズはまちがいなくありました。それは暦です。例えば良子内親王の群行では、日が悪いからという理由で、斎宮へ入るのが1日延期させられました。暦がないとできない判断です。
この時代の暦は具注暦といい、来年の月・日の善し悪し、閏月の有無などを判断して、11月に配られるものでした。そしてこの暦を作成するのが、暦博士という役職に就いた陰陽師の重要な仕事だったのです。そして斎宮にもまた、毎日の吉凶を知る必要があるので、当然具注暦は置かれていたはずなのです。

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 また、こうした暦には、悪い方向が記されており、そうした所で、危険な神霊に行き会うことが大変恐れられていました。そうした恐怖心によって生み出されたのが百鬼夜行の伝説です。百鬼夜行といっても鬼が百匹歩くわけでありません。「鬼」という言葉はもともと漢字では亡霊の意味ですが、幽霊の行進という意味でもありません。文字で残された鬼は、目が三つとか手が三本とか、鳥や馬の頭をしているなどの異形の者で、また絵画として残されている者にも、鳥や毛むくじゃらのもの、角盥のような器物が変じたものなど、さまざまな表現が見られます。どうやら平安時代人たちは、こうした一群の異形を鬼とみなし、彼らが祭行列さながらに大路を練り歩く様を「百鬼夜行」と呼んで恐れたようです。
さて、今、大路を練り歩くと言いましたが、平安時代の斎宮は、まさに大路によって構成された「方格地割」で周囲から切り離されていた空間でした。そのなかを百鬼夜行は歩かなかったのでしょうか。残念ながら正確な記録は残っていませんが、方格地割の北西の角には「斎王の森」があり、北東の角の少し向こうには明治まで「丑寅神社」があり、現在も碑が残っています。斎宮の空間を守る意識はやはり働いていたようです。 
さて、こうした「ようである」ものの他に、博物館展示室でも興味深い呪いの資料について展示をしています。斎宮跡の八世紀の遺構、ちょうど博物館の下あたりからは、五芒星、つまり一筆書きの☆マークを線刻したらしい土師器の破片が出土しているのです。また、縦横の直線で構成された「♯」マークのような記号を刻んだ土器も出ています。これらは完結した空間をあらわし、悪いものが入ってこないようにするまじないだったと考えられ、奈良時代以来斎宮でこのような呪術が行われていたことをうかがわせます。奈良時代の五芒星となるとかなり珍しいものです。

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こうした悪いものが入ってこないまじないとして、斎宮のある南勢・志摩地域で有名なのは、一年中注連縄を掛ける風習と、志摩の海女さんたちのお守りです。注連縄の中心、「蘇民将来子孫之家」「笑門」など色々なまじないが書かれた板の裏には、五芒星と縦四本、横五本の線で構成されたマークがしばしば見られます。このマークは、志摩に行くとセーマン・ドーマンと言われ、海の中で恐ろしい魔物から身を守ってくれるおまじないと信じられています。セーマンは安倍晴明に、ドーマンはそのライバルだった法師姿の陰陽師、蘆屋道満に由来していると言われ、陰陽道との関係が指摘されています。
そしてもう一つ、斎宮で面白いのは、方格地割内に出来たT字路の道が行き当たる家の屋根上に、しばしば瓦質の鍾馗さんが見られることです。この風習は京都を中心に近畿圏など各地で見られるものですが、この屋根の上の鍾馗さについて、こんなすごいホームページで研究を公開されている方を見付けました。
鍾馗博物館(http://www.ne.jp/asahi/yuhi/kite/shoki/shokitop.html)
鍾馗さんを飾るのは、どうも京都で発生した魔物よけのまじないが各地に定着したようです。もともと魔物は道をまっすぐにしか歩けず、その行き詰まりに魔物退治で知られる鍾馗さんを置いて進入を防ごう、という意識のようです。道を魔物が歩いてくる、というと、集団ならまさに百鬼夜行ですね。斎宮あたりの民家に瓦が葺かれ出したのは近代のことなので、それほど古い風習ではありませんが、辻や結界を重視してきたこの地域だからこそ、京都などで流行っていた風習を受け入れたものと見られます。
斎宮の鍾馗さんは、時代を超えて平安時代の人々の思いを受け継いでいるのかもしれません。

榎村寛之

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