第38話  伊勢の森と斎宮の街

 伊勢神宮の門前町は、内宮が宇治、外宮が山田といいます。これらを合わせると宇治山田で、戦前の現在の伊勢市は、宇治山田市と呼ばれていました。そして近代に開設された国鉄の駅は「伊勢市」、近鉄の駅は「宇治山田」と言いました。近鉄の伊勢市と宇治山田の二駅がほとんど隣接しているのは、近鉄が国鉄伊勢市駅と連絡するために、伊勢市駅を後から作ったためです。そして山田は、常に宇治より大きな街でした。この山田や宇治の繁栄を支えていたのが、神宮の権禰宜という肩書きを持つ下級神人で、彼らは鎌倉時代頃より「御師(伊勢では「おんし」と読む)」と名乗り、全国に伊勢神宮の信仰を布教し、参宮を勧めます。その効果で、平安時代までは私幣禁断が定められ、個人の参詣は厳しく禁じられていた神宮は、室町後期には多くの参詣者が集まる、巡礼の聖地に変化していきます。そして御師は彼らを案内し、自らの屋敷に宿泊させて手数料を取ること、つまりツアーコンダクター兼ホテルのオーナーという立場で伊勢信仰に関わっていきます。こうして、神宮の門前町、山田や宇治ができあがるようです。
 さて、これらの都市はいつごろできたのでしょうか。十世紀に編さんされた『延喜式』では、「山田原」という地名が、神宮の外宮関係の祝詞などに見うけられます。しかし、マーク・シュナイダー氏「中世都市山田の成立と展開―空間構造と住民構成をめぐって―」(『都市文化研究』vol.10 2008年)によると、山田「村」という名での初出は『伊勢公卿勅使雑例』(『続群書類従 第一輯』所収)にある天仁二年(1109)の次のような事件記事の中だとのことです。
 五月二十三日に「山田村」の住人石連武時の妻が亡くなり、その子が六月四日に二見郷の住人重成という人に拾われました。現在なら美談です。ところが、重成がその後、神宮の六月月次祭の役を勤めるために上京して、「実はなぁ」とこの一件を話したところ、神宮祭主(三位くらいの公卿)にまで上奏する大騒ぎになり、ついに六月祭に送る勅使は延期、幣帛を新調して七月に謝りの使とともに送ることになった、というのです。
武時の妻の死のケガレが、その子から重成を介して伝染すると考えられたようで、重成には災難以外の何ものでもないような事件でした。しかし、この記事からは、平安時代中期の山田に「村」と呼ばれるような集落があったことがわかります。

 ちょうどその頃、藤原道長から四代目の子孫で、『中右記』という大部の日記を遺した右大臣藤原宗忠(1062-1141)が、永久二年(1114)に、伊勢神宮の公卿勅使として遣わされた時の記録を遺していますので、紹介しておきましょう。
 
二月二日  (前略)櫛田川の東辺で神宮の検非違使(神郡内の警察組織の人)が来て、一人は神宝に付き、一人は先導する。多気川(祓川)に至り祓(戌亥を向く)。午の刻(11時から13時まで)に斎宮北面方を過ぎる。神宝は南面を過ぎる。斎宮の女房たちが車を立てて見物。申の刻(15時から17時まで)に離宮に至る。
(斎宮の区画の中を通る時、斎王に仕える女房たちが、葵祭の行列を見るように見物していた、という華やかな雰囲気がわかります。)

二月三日 雨。卯の刻(5時から7時まで)に沐浴して束帯を着し、参宮しようとしたら風雨。全て用意は手を抜いている。巳刻(9時から11時まで)に東庭で祓、宮川を渡り、岸上でも祓、午の刻(11時から13時まで)に外宮着。宮司祢宜らに迎えられ、儀式の後正殿の戸を開けて神宝を納める。天皇直筆の宣命を微音で読み、本座に戻り拝礼、内宮に神宝を奉納。(中略)内宮に出発、中山(内宮と外宮の間の岡、合の山)の上で大風、未の刻(13時から15時まで)に内宮着。儀式の後神宝を奉納(中略)、酉の刻(17時から19時まで)に一鳥居を出るが、大雨大嵐で一行は散り散りに。戌の刻(19時から21時まで)に宮川に来るが、増水して離宮に帰れず。外宮の(度会)雅行が「我が宿館」へと勧めるが、神宮近くで泊まるのは恐れ多いと、「下人屋」に宿す。亥の刻(21時から23時まで)に雷鳴。三十年余の公家生活でも未経験の椿事。神慮に叶わなかったかと煩悶。でも正殿の戸が開いて神宝を納められたから大慶、とも。
二月四日  小舟三艘を結んで宮川を渡る。卯の刻(5時から7時まで)に離宮に着く。
 

 このように、内宮で暴風雨に遭った宗忠一行はどうにか深夜に宮川まで帰り着くのですが、増水して渡れる術が無く、外宮禰宜から自分の館に誘われたものの、神宮近くでは恐れ多いと、結局川の近くの「下人屋」に泊まることになったのです。
 このように見てくると、宗忠は宿泊施設を離宮と考えていたこと、外宮周辺には、禰宜館など関係者の居所以外には、宿泊できるような施設もなく、結局足場のいい宮川近くの庶民の家を借り上げることになったこと、などがわかります。
 このことから、「山田村」といわれる集落が当時あったとしても、外宮回りに門前町のような施設群はまだなかったようです。外宮周辺には、神宮の祢宜や内人などの館や、それに付随する人々、庶民の家があった程度だったのだろうと思われます。そして交通が便利な山田でもそうだったのですから、内宮周辺となればましてや、ということになるでしょう。まだ宇治橋の原形になるような常設の橋もなかった時代、内宮は五十鈴川の向こうの深遠な森の中で静かに佇む、文字通り世間から隔離された所だったと考えられます。
 このように、伊勢市の中心部、宇治・山田界隈は、平安時代にはまだまだ自然の静けさの中に置かれていたようですが、同じ神宮関係の施設でも、平安時代初期より、人工的な景観が形作られていた所もありました。それが斎宮です。
 斎宮では八世紀末期に碁盤目状の区画、方格地割が造成され、整然とした都市計画で街作りが行われていました。五百二十人以上の人々が働き、おそらく二、三千人の人々が関係するという状況だったと考えられます。竹の都という別名があるくらいで、それは都を思わせる繁華な空間だったに違いありません。
 平安時代の斎王は、都市的景観の斎宮から、自然的景観の神宮へと旅をして、年に三度の神宮参詣を行っていたのです。それは、花の都からはるばる伊勢に赴いた斎王の旅を圧縮したものと意識されていたのでしょう。
 山田や宇治の街ができる以前、神宮領の中での最大の都市は、まぎれもなく斎宮だったのです。

榎村寛之

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