第32話  ドッカンとジョバンニの上着

 『延喜斎宮式』には「造備雑物条」、つまり斎王が伊勢に群行する際に準備される品々を書き上げた条文があります。それこそ大きな物は輿から小さな物は針に至るまで、明らかに群行用の「鞍」とか、斎宮での生活にも使われるであろう「屏風」など、実に色々なものが書き上げられているのですが、その中に「獨カン【カンはけもの偏に干】皮二張」というものがあります。これに続くのが「熊皮七張」なので、熊【ツキノワグマ】の皮より手に入りにくい動物の毛皮らしいとはわかるのですが、それ以上の情報は載せられていません。「獨」は「独」の旧字体ですので、以後はこの生き物を「ドッカン」と読んでおきたいと思います。
 また、同じ延喜式の「民部式」下の交易雑器についての記載では、ドッカン皮は、陸奥国と出羽国が交易して入手し、都に納める事になっています。
 まず陸奥国では、葦鹿(あしか)皮とドッカン皮は、「数は得るに随え」、つまり、入手したものだけ出せとしており、その後に砂金三百五十両、昆布六百斤、索昆布六百斤、細昆布千斤と続きます。次に出羽国では、熊皮二十張に続き、葦鹿皮、ドッカン皮について記されており、やはり「数は得るに随え」とあります。
 ここまで見てわかることがいくつかあります。まず、このドッカンという生き物は、熊より珍しかったということ。そして、熊や砂金などと違って、東北地方でどの程度入手できるか見込みが立たないものだったということ。そして、「葦鹿」の皮とペアで扱われていたらしいということです。『日本後紀』の弘仁元年九月乙丑(二十八日)条には、大同二年八月十九日に出された華美についての禁令を引用した中に「獨射カン【けもの偏にカン】・葦鹿・ムササビ・羆」の利用を禁断するという記述が見られます。アシカの毛皮も高級品として認識されていたようです。
 ところでこのうち、羆は北海道にしかいないヒグマのことですから、北海道南部の蝦夷の人たちとの交易がないとおそらく入手はできなかったでしょう。しかしアシカは、現在こそ日本にはいませんが、二十世紀初期まではニホンアシカが各地にいたのだそうです。それなら何も陸奥で交易しなくても捕獲はできそうな気がします。海獣だから純粋な狩猟民族の蝦夷でないと捕獲しにくかったのでしょうか。しかしあるいは、ここで言うアシカとは、通常のアシカの1.5倍にもなるアシカ科最大の獣、トドのことかもしれません。クマではなくわざわざヒグマを求めている【東北地方ならニホングマも多いはず】のも、大型獣の毛皮の方が高価だったからという理解もできるからです。トドなら、北海道にしかいないので、交易しないと手に入らない毛皮ということになります。そして獨射カン【けもの偏にカン】はドッカンと同じ生き物と見られるので、これらの毛皮は、陸奥や出羽から送られてくる貴重品とも理解できます。

 しかしながら、先の華美の禁令の中のムササビは本州以南に分布する一方、北海道にはいないそうで、「陸奥や出羽から送られてくる貴重品」には入りません。そして当然、陸奥や出羽の交易雑器には入っていません。この条文は、なぜムササビが入っていて、よく毛皮が利用されるシカやキツネ、タヌキ、テンなどがないのか、不思議ではあります。あるいは、ムササビは最大1メートルにもなる日本最大の在来ネズミ目【ネズミやリスの仲間】なので、ヒグマ、トドと、大きい物つながりなのかもしれません。
 さて、では問題のドッカンとは何なのでしょう。
 『訳註日本史料 延喜式』や『訳註日本史料 日本後紀』の註を見ると、トナカイ、トッカリ【アイヌ語でアザラシのこと】などの説を挙げ、北方系の犬説を妥当としつつも、ただしラッコかもしれないとしています。
 たしかに言葉の上で見ると、「カン【けもの偏に干】」とは野生の犬のことです。『倭名抄』では、胡の犬、つまり中央アジアにいる野生犬だとしています。東南アジアからアフリカに分布するジャッカルとかアメリカのコヨーテみたいなイメージです。ところがこの「カン【けもの偏に干】」、具体的にはどの動物なのかがよくわからないのです。
 古代中国では、犬は家畜・野生ともに現在の生物学的分類より複雑に分けられていたようで、犬・狗・狼・豺・カン【けもの偏に干】などの名前が見られます。このうち、狼はタイリクオオカミで間違いないでしょう。豺は、多分中央アジア・東アジア・東南アジア・南アジアに広く分布するドールに当たるのではないかと見られています。ところがその他の地には、北方・中央アジアには野生の犬種はほとんどいないようなのです。つまりカン【けもの偏に干】が今のどの動物に当たるのかがよくわからないわけです。
 しかもそれが日本で混乱します。もともと犬と狗の区別もなく、一方でニホンオオカミについても、オオカミとヤマイヌという二通りの呼び方があるという日本語ですから、豺と狼とカン【けもの偏に干】になるとますますわからなくなります。なにしろ狐のことを「野カン【けもの偏に干】」などとも言っています【ちなみに同じく狐を指す言葉で、「野干」というものもあります。こちらは仏典に出てくる言葉で、もともとはインドなど南アジア以西に住むジャッカルのことが狐と混同されたようです】。こうなると、漢字だけでは考えるのが難しいわけです。
 さらに複雑なのは、交易で手に入れる毛皮ということは、都では生きている時の姿を見た人がほぼいないということです。陸奥・出羽での交易品ですから、相手は東北北部の蝦夷の人や、更に北の北海道アイヌの人などです。そして彼らが「獨カン【けもの偏に干】」という漢字を使うわけがないので、これは彼らから手に入れた加工済みの毛皮のあるグループに、平安時代の都の人が、中国の知識をもとに付けた名前だと考えられます。もしその毛皮が胴体だけだったら、ドッカンとは、「こんな手触りの毛皮の生き物」という以上のイメージしかないということになるのです。つまり、犬みたいな形をしていたかどうかもわからないということです。

 この前提で各説を検証してみましょう。
 まず、トナカイはアイヌ語なんだそうですが、分布域はシベリアからサハリンまでのようです。つまりトナカイは、最短距離でもサハリンから渡島蝦夷【後の北海道アイヌ】を中継した交易により得ていたと言えます。これは、サハリンと渡島蝦夷を相手とする二重の交易となります。しかし平安時代の北海道とシベリアやサハリンとの間にどこまでの交易があったのかはよくわかりません。
 次にアザラシですが、これはアイヌ語ではトッカリといい、たしかにドッカン・トッカンとも似ています。ゼニガタアザラシやゴマフアザラシが東海岸周辺にやってくるようなので、直接手には入ったのかも知れません。しかし江戸時代の『和漢三才図会』によると、アザラシの皮は松前あたりで売られているものの、それほどいい毛皮でもないとのことです。
 北方種の野生犬は前述のように種類が特定できず、やはり二重の中継交易になるので入手は難しそうです。もしかしたら、ニホンオオカミではないイヌ科の北海道の生き物、たとえばエゾオオカミの毛皮という可能性もあります。この時代ならエゾオオカミ自体は北海道には数多く分布していたはずですし、しかもオオカミの毛皮は暖かいのだそうです。しかし、ヒグマと違って、アイヌにオオカミを積極的に狩る文化があったかどうかはよくわかりませんし、本州諸国の交易雑物にオオカミが入っていないのに、わざわざ北海道から入手するかという問題もあります。また、エゾタヌキやキタキツネ、エゾテンなどの、本州にも住むイヌ科動物の北海道亜種の可能性もありますが、毛皮を見れば、別の動物とは思わないでしょう。
 では、ラッコはどうか。ラッコもアイヌ語で、実は北海道襟裳岬周辺に二十世紀前半までは分布していたのが、乱獲のため絶滅したらしいのです。襟裳岬周辺では、今でも時々群れからはぐれたラッコが出没するらしいので、きっと棲める環境だったのでしょう。そしてラッコは、アシカやアザラシに比べて皮下脂肪が薄く、その毛皮の暖かさは比べものにならないそうです。
 こうして見てくると、陸奥や出羽で手に入る高級毛皮のドッカンとは、ラッコだったのかもしれません。今後、東北地方太平洋側と襟裳岬周辺の関係がもっともっと明らかになってくれば、意外なつながりが明らかになるのかもしれません。
 ラッコが急激に減って、その毛皮の価格が高騰したのは二十世紀前半のことでした。そのため日本と当時のソ連の間に保護条約が結ばれ、その一方で密漁も増えました。
 その頃、この社会状況を踏まえたある小説が生まれました。主人公は、自分のお父さんがラッコの密猟に手を貸していたんじゃないかとして友人からいじめられていました。この小説を通してラッコという言葉は、はじめて日本人の心に深く残るようになったのです。
 「ジョバンニ、おとうさんからラッコの上着が来るよ」
 宮沢賢治『銀河鉄道の夜』の一節です。
 その千年以上も前に、斎王やおつきの人々が、ラッコの毛皮をさわって「暖かいね。」と言いながら、遠い北の空に思いをはせていたとしたら。
 はるか東北、そしてさらに遠い北の世界と斎宮は、ドッカンという動物、もしかしたらラッコで結ばれていたのかもしれません。
 なお今回のお話は、札幌国際大学の関口明先生との議論を多く参考にさせていただきました。最後になりましたが、記して関口先生に感謝いたします。

学芸普及課長 榎村寛之

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