第31話  よしこさんがいっぱい

 斎宮歴史博物館には、「斎王年表」があり、歴代の斎王の名前と就任期間、天皇との関係などがまとめられています。そこでご紹介している斎王の名前には、みんなふりがなが振られているのですが、実は斎王の名前の読み方はほとんどわかっていません。
 もともと内親王の名前は、内親王号を与えられる時に付けられるのですが、普段はほとんど名前を呼ばれることはありませんでした。当時は目上の人を実名で呼ぶことは避けられていたのです。そのため皇族を実名で呼ぶ機会は、天皇から公文書で名前が与えられる時に、文書を読み上げる時以外には、ほとんど無かったのです。
 したがって、名前はついていても、どのように読むのかという記録は極めて少なく、平安時代以降の斎王で確実に読み方がわかっているのは、後朱雀天皇の時代の良子内親王だけと言われていました。これは、名を付けた時の記録に、「良は長と読む」とあることから、「良」と「長」に共通する訓、つまり「なが」と読ませ、「良子」は「ながこ」だった判明したのです。しかし、内親王の名付けの記録はほとんど残っておらず、従って良子のような例は極めて稀なのです。
 そこで本館では、付けられた漢字の意味から斎王の名のよみかたを推定しているのですが、ひとつ困ったことがありました。選ばれた漢字は、大抵意味が「よい」、つまり「よしこ」になってしまうのです。本当にこんなに「よしこさん」がいたのか、お客様からもしばしば質問があるところです。しかし確実な資料があるわけではなく、なかなか答えにも悩むことがあったわけです。
 ところが今回、特別展『後醍醐‐最後の斎王とその父‐』の準備中に、この問題への有効な回答になる資料が見つかりましたのでご紹介をしたいと思います。
 今回展示をする中に、『兵範記(ひょうはんき)』という日記があります。平清盛の妻、時子の叔父で、摂関家の家司、つまりマネージャーとして働き、自身は従三位兵部卿に至ったという、平信範(たいらののぶのり)という貴族の日記です。展示をするのはその裏側、いわゆる紙背(しはい)文書ですが、本文の嘉応元年【1169】九月二十四日条に面白い記事があったのです。
 この年、新帝となった高倉天皇のために新しい賀茂斎院が選ばれ、その内親王に名を付けることになったのですが、案が二つ出て、意見が分かれました。一つは「よし子【「よし」は、人偏に「善」】」、もう一つは「祇子」というものでした。
 これについて、左大臣藤原経宗(つねむね)【51才】、前権大納言で按察使(あぜち)を兼ねた藤原公通(きんみち)【53才】、大納言兼左大将藤原師長(もろなが)【32才】の三人が意見を出し、経宗はその訓読みについて、こんなことを書いているのです。 

「【人偏に「善」】字はすこぶる難字たりといえども、強いて巨難なきか。祇字は御名に用いらるの時、訓読するに不快なるか。追申、【人偏に「善」】字、釈に云う、善なりと云々、善子斎宮と令子斎院は、その訓が共に【人偏に「善」】と同じ。しかりしこうして同じくして字の異なるの例、あげて計るべからず。祇字、釈に云う、敬なり。恭敬の心か。恭字は、延喜の皇女なり。斎居に備ふといえども、程なく退出す、これらの例を案ずるに、【人偏に「善」】字に何事か候や」
 簡単に訳すと、
「【人偏に「善」】の字はたいへん難しい字だが、とくに大きな問題はないのではないか。祇は名前に使う時、訓読するのに不快ではないか。なお、【人偏に「善」】は釈【「釈」は漢字についての解釈書の意味か】によると、善だという。善子斎宮と令子斎院は、訓がともに【人偏に「善」】と同じになってしまうが、同じ訓で字が異なる例は、あえて数える必要もないほど多い。祇の字は、釈によると、敬の意味だという。恭敬という意味か。恭の字は醍醐天皇の皇女に使われたことがある。斎王となり、清浄な生活に入ったが、ほどなく退出した。これらの例から考えて、【人偏に「善」】に何の問題があろうか。」となります。
 つまり、【人偏に「善」】子という名について、斎王であった善子内親王、斎院であった令子内親王と同じになるけど、訓が同じで字が違う例はいくらでもあると言っているわけです。ちなみにここで触れられている恭子は醍醐朝の賀茂斎院になった内親王で、経宗の認識は間違っており、十三年ほど斎院を務めています。
 この藤原経宗【1119年から1189年】は、保元の乱から源義経の都落ちまで、三十年以上という長い期間、摂関家の傍流【摂政関白藤原師実(もろざね)の孫、師実は頼通の子】なのに、政治の中枢にいた人物です。後白河院に疎まれて阿波に流されたことや、義経に同調して鎌倉幕府に睨まれたこともありましたが、藤原通憲【信西】・平清盛・後白河法皇・源頼朝・九条兼実など、院や院の近臣・平氏・源氏・摂関に多彩な人材が輩出されたこの時代をしぶとく生き抜きました。価値観がどんどん変わっていく時代だからこそ、彼の宮廷政務全体についての情報量と行政処理能力を、誰もが必要としたのだと言われています。
とすれば、斎院の記録についての認識違いこそあれ、彼の見識は基本的に信用しておいていいのではないかと思われます。つまり、少なくとも十二世紀後半の宮廷やその周辺の貴族社会には、実際に色々な漢字の「よしこ」さんがあふれていたと考えられるのです。
 ちなみに、高倉朝の斎院の名は、経宗の提案通り、【人偏に「善」】子内親王、よしこさんになったのだそうです。

学芸普及課長 榎村寛之

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