第16話  ツンデレ斎王・酒人内親王

 しばらくでございます。ようやく春らしくなりましたので、斎宮千話一話もそろそろと書き足していきましょう。
 さて、近年ちまたでは、ツンデレとかヤンデレとか言った言葉が定着しているようでございますな。色々定義はあるようですが、ツンデレは平素は気が強い(ツンツン)が、好きな人といっしょの時にはしおらしい(デレデレ)女性という「属性」だそうですね。
 斎王の中にそんな人がいるかな、というのが今回の話題なわけですが。
 もともと斎王は独身を通した女性が多く、私的なことが分からない人がほとんどなので、名を残した人はどうしても、何か特別なことをした人が多いのですね。
 ツンデレ、つまりプライドが高いけれど愛情も深いというタイプとなると酒人内親王(754-829)となりましょうか。8世紀末期、ちょうど方格地割区画の原型となる史跡東部の斎宮が形成された頃の斎王です。父は光仁天皇で、父天皇の時代の斎王となりました。酒人の死去した時の記事では、「容貌はことに麗しく、外見も心情も美しい。」とされています。この人は76才で亡くなっていますので、当時としては異例なほどの長寿ですから、「伝説の美女」としてその美貌が語り伝えられていたということなのでしょう。
 しかし彼女の特徴はそればかりではなく、「性と為り倨傲にして、情操修まらず」と記された所です。つまりツンツンした奔放な性格だったようです。さらにそれに続いて「よう(遙のしんにょうを女へんにしたもの)行はいよいよ増し、自制するあたわず」とあり、山中智恵子『斎宮志』は、この「よう」の字を「美しく舞うさま、たわむれるの意味」と説明しています。魔性を秘めた女性という所でしょうか。この性格のために、桓武天皇にいたく寵愛され、そのツンツンぶりもとがめられず、好きにさせていたとあります。男性から見た、女性としての魅力に溢れた人だったようです。
 ご存じの方も多いと思いますが、酒人内親王は光仁天皇と、聖武天皇の娘で元斎王・井上内親王の娘であり、桓武天皇の異母妹にあたります。父が称徳天皇没後の政界混乱の中で光仁天皇として即位したために斎王となったのですが、斎王に就任してすぐに母と弟の他戸親王は天皇呪詛の疑いで失脚してしまうという悲劇に見舞われ、そのまま伊勢に送られます。そしておそらく母と弟の喪によって帰京し、桓武天皇の後宮に入り、第93話で紹介しました斎王・朝原内親王を産んでいます。朝原は桓武朝最初の斎王でしたから、酒人は生まれてすぐの娘を伊勢に送ったことになるのですね。
 井上内親王と他戸親王の失脚と謎の死にはおそらく桓武天皇も関わっていたはずですから、酒人はいわば母と弟の敵と結婚させられ、しかも生まれた娘は取り上げられて伊勢に送られてしまう。そりゃあ素行も荒れるというものでしょう。しかし山中氏は、彼女の死去に際しての評には「隠微なしめっぽさがなく、晴朗である」とされています。東大寺で万燈会を常に行っていたとも記されており、彼女の「不良」性にはイベント好きの明るさがあり、桓武を捉えて離さなかったのもそうした魅力ゆえなのでしょう。
 このように、いわば政治に翻弄されながらも、後宮の華としてプライド高く生き、桓武天皇もその魅力には勝てなかったというのが酒人内親王の人生だったということができるようです。ツンデレ斎王の称号は彼女にふさわしいのではないでしょうか。
 ところで酒人内親王の出した文書というものが、東大寺文書の中に残っています。そこに残されている酒人内親王家の印というのがなかなか面白いものです。なんと、判の面いっぱいに『酒』の一文字が。
 この酒人内親王家の印影は、江戸時代に松平定信が編集した古宝物図録『集古十種』にも掲載されています。斎宮歴史博物館で4月24日(土曜日)から開催している企画展「平安の住まい」でも、この『集古十種』の酒人内親王家の印影を展示しています。
 「酒人」の名の由来は、乳母の氏族が酒人連氏だったことによるようなのですが、「酒人家印」などとせず『酒』一文字にしている所に、この斎王の強い自己主張がよく顕れていると思うのは私だけでしょうか。

(学芸普及課 課長 榎村寛之)

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