第11話  清少納言も紫式部もはまっていた・・・はず

 先日、大阪にて関西広域機構主催の「関西ワークショップフェスティバル」に参加して、双六(すごろく)の指導をしてきました。
 双六、といっても道中双六、つまりサイコロを振ってゴールをめざすゲームではありません。バックギャモンと同じと言われる、盤双六です。
 11世紀の専制君主・白河上皇が、自分の意のままにならないものとして、賀茂川の水と比叡山の山法師とともにあげたのが「双六の賽」の目、というように、平安時代の人たちは貴庶を問わずこのゲームにどっぷり漬かっていたことは、よく知られています。
 なにしろ日本で「雙六」という文字が最初に見られたのは689年で、白河天皇より400年も前のことです。しかも、その資料はなんと、双六の禁止令でした。双六というゲームの発祥の地は紀元前2600年頃のメソポタミアといわれ、双六【雙六】という名は、「六の目が二つ」、つまり振って出る最大の数という意味で、インドを経由して伝わった中国でつけられたものと考えられています。3000年以上いう長い時間を経て、極東の島国に入ってきたのです。そして七世紀後半には大流行していたのでしょうね。
 この禁止令を出したのは持統天皇です。彼女の夫は天武天皇で、この人は天文や遁甲(とんこう)を知り、中国的な科学知識にも通じていたと『日本書紀』には見られます。このことから、舶来の新たなゲームである双六にも興味を持っていたことは十分に考えられます。
 そしてこの双六が「博打」として大流行した結果、財産を失う者続出という状況を生み、そのために禁制をしなければならなくなったのでしょう。
 持統天皇にとって天武天皇は、博打マニアの困った亭主にほかならなかったのかもしれません。天皇が博打にはまって、唐や新羅から渡来した珍しい宝物を賭けて、貴族たちにどんどん取られていく。そんな光景があれば奥さんは怒りますな。
 そういえば現存する最古の双六盤は、聖武天皇の遺品として正倉院宝物に見られる螺鈿や紫檀の細工を凝らした豪勢なものです。宝物を東大寺に施入した藤原光明子【光明皇后】も、博打マニアの夫に悩まされていたのかもしれません。
 鎌倉時代に編纂された、奇説・怪説をとりまぜた風聞集『古事談』という書には、元・斎王井上内親王が夫の光仁天皇と賭け博打をしていたという伝説が見られます。こうした話は決して珍しいことでもなかったようですね。
 さて、『枕草子』を見ると、「つれづれなるもの」の段に「馬下りぬ雙六」という言葉が見られます。サイコロで思うような目が出ず、駒がなかなか進まない様をいったものです。考えてみれば、将棋の「駒」も「馬」の意味ですね。
 さらに、「つれづれなぐさむもの」として碁・雙六・物語などがあげられていて、雙六は暇つぶしの友のとして親しまれていたことがわかります。
 ここでちょっと気づいたことを。
 『令義解』という古代の法律の解説書に、博戯【賭け事のこと】として、「雙六」と「樗蒲」という遊びがあげられています。「樗蒲」とは「ちょぼ」と読みます。難しい遊びのようですが、「ちょぼいち」とも呼ばれる、サイコロ一つを振って、出る目を当てるだけの単純な賭け事です。もともと賭け事で大きな財産が動くということは、スロットマシンにしてもルーレットにしても競馬・競輪・競艇の類にしても、簡単に勝負がついて何度でもできるという原則があるはずです。また、広く流行るということは、ルールは単純でなければならないはずです。そうすると、双六の遊びには何種類かありますが、博打として愛好されたのは、時間のかからない単純なルールの「つみかえ」と呼ばれるものだった可能性があります。

 対して『枕草子』に見られる、ひまつぶしの双六などでは、もっと時間のかかる複雑なルールの「本双六」を楽しんだのではないかと思われます。
 もっとも『源氏物語』に出てくる「近江の君」【光源氏のライバル、元・頭中将の致仕大臣(ちじのおとど)の落としだねで、早口の姫君】などは、双六を打つ時の言葉にも「明石の尼君、明石の尼君【源氏の妻の一人、明石の上の母で、東宮の曾祖母として晩年に出世する幸い人】」と唱えながらサイコロを投げると描写されていますから、かなり博打的にハマっていたようにも思えます。近江の君は決して上品な姫とは書かれていないので、彼女に双六をさせるあたりは、紫式部らしい根性の悪さともいえるかもしれませんね。『源氏物語』では最高級の人が双六を打つ場面はあまり出てこないのです。
 とはいえ、近江の君の双六の描写は、なかなかリアルなものがあり、紫式部が双六をしなかったとは考えられないですね。
 『大鏡』では、右大臣藤原師輔【道長の祖父。斎宮に来たこともあります】が、ライバルの藤原元方と双六をして、当時懐妊中だった村上天皇中宮で娘の安子に「男の子が産まれるならぞろ目の六よでろ!」と唱えて投げると、見事にぞろ目の六が出たという話があります。また、『長谷雄草紙』という鎌倉時代の絵巻には、九世紀の中納言紀長谷雄が鬼と双六をして美女を手に入れたという話もあります。白河上皇の話を思い出すまでもなく、双六は最高級の貴族でも普通に楽しむ博打だったのです。
 こうした双六も、江戸時代には度重なる禁制で衰退に向かい、同じサイコロを振って駒を動かすゲームにその地位を奪われてしまいます。そのゲーム、つまり現在の双六の原型も中国に見られますが、双六の名が付いたのは日本についてから。つまり名前まで乗っ取られてしまったのです。
 同じ平安時代から続く遊びでも、碁とは違って技量の差が出にくい双六は、「道」としてまとまることができず、本因坊も碁聖も作れないままに、賭博の禁制とともに衰退していったようです。ギャンブル的なゲームとしては、花札や株札などに押され、王朝風ゲームとしては百人一首カルタに押され、現在では「日本バックギャモン協会」があるのに「日本双六協会」はないというありさまになっているのです。
 それでも盤双六は、やってみると意外に夢中になる遊びです。平安人のギャンブル気分を味わえるこの遊びは、いつきのみや歴史体験館でいつでも楽しむことができるのです。
 ただし、物を賭けるのは禁止ですよ。

(学芸普及課 課長 榎村寛之)

ページのトップへ戻る