第3話  斎宮にゃいなかった・・・かにゃ

 河添房江氏の『光源氏が愛した王朝ブランド品』(角川書店 2008年)は、同じく氏の『源氏物語と東アジア世界』(NHKプックス 2007年)とともに、「国風文化を代表する『源氏物語』」という評価を変えた、として長く記憶される名著でしょう。
 平安時代には遣唐使の廃絶により大陸との交流が途絶え、一種の鎖国のような状況下で日本独自の貴族文化が栄えた、というのは、これまでの歴史・国文学界の共通理解でした。ところが近年、歴史学の方からは、遣唐使が廃絶して以降、むしろ大陸との交易が盛んになっていたことが大阪大学の山内晋次氏に代表される研究で、歴史学の側からは次第に明らかにされてきました。そうした、平安時代の‘We are not alone(古い?)’を国文学の側から、しかも源氏物語という超大物の中で、誰にでもわかる形で明らかにしたのがこれらの本なのです。
 その中で、今回は、輸入品のお話です。
 斎宮跡の出土資料で、貴重品、といえば緑釉陶器がよく知られていますが、それより高級な貿易陶磁と称される、青磁や白磁の破片もまた出土するのです。河添氏によると、斎宮女御の父親である重明親王の日記『吏部王記』の天暦5年(951)6月9日条には、宮中で「秘色」とよばれる越州窯青磁が使われていた記録があります。同じ時代を生きた斎宮女御なども、あるいは青磁を使っていたのかもしれません。
 さて、こうした陶磁器や衣料品の他にも、中国-当時は宋(北宋・12世紀半ばからは南宋)-から薬、経典、文房具、銅銭などさまざまなものが日本に輸入されていました(近年は、その北方の遼や金などの王朝との関係も注視されています)が、そうした輸入品の中に「異鳥珍獣」の類がありました。平安時代の記録を見ても、オウムのような鳥や、羊のようなおとなしい動物などがペットとして輸入されていたようですが、それらは内裏の他ではほとんど見られないごく限られた上流階級の独占物でした。
 そんな珍しい動物の中で、比較的飼いやすく、役にも立ったので、この時代頃から飼われはじめた、と見られているものがあります。それは、
  ネコです。
 ネコは紀元前(9500年前ともいいます)の中近東で飼われはじめていたらしく、世界各地でそれぞれに野生猫を飼育したのではないようです。そしてシルクロードを経由して中国にわたり、日本に入ってきたのです。最近、長崎県壱岐島のカラカミ遺跡で、弥生時代(約2000年前)のイエネコの骨が見つかった、という報告があり、意外に古くから飼われていた可能性がでてきました。
 10世紀初頭に編纂されたという博物書『本草和名』には、「家狸、一名猫 和名禰古末(「かり」、いちめい「みょう」 和名を「ねこま」という)」とあります。ネコのことを「イエダヌキ」と読んでいたのでしょうか??
 この書き方は、猫という漢字(獣へんにネコの声miaoに近い「苗」を当てたらしい)ができるまで、中国では、「狸」という字が、ヤマネコなどのネコ科動物を指していた、という歴史を示しています。「狸」はヤマネコ、「家狸」はイエネコ、というわけです。古代中国ではネコとタヌキは近い動物と考えられていたのです。もしも弥生時代からネコを飼うことがある程度普通に行われていたのなら、日本でも実際に「家狸」と呼んでいた時期があるかもしれません。なにしろ壱岐に近い対馬には「ツシマヤマネコ」、つまり本来の「狸」がいたわけですから。
 ところで、タヌキというと化かす、というイメージがありますが、じつは古典の世界では、平安時代末期の『今昔物語』以後でないと、人を化かすタヌキは現れてきません。どうも中国でもそのようで、タヌキは中国でも宋代くらいから化かす動物、というイメージができてきたようです。

 では、タヌキはなぜ化かすのか、タヌキ寝入りなどといって仮死状態になることなどがその理由と説明されることが多いのですが、どうも「狸」と「猫」の文字の混乱が原因のようでもあります。ネコについても、孤独を愛する、いつも寝ている、油断がならない、などのイメージから、化け猫、猫又、ネコ娘など、怪談や不思議な話は、洋の東西や時代を問わず見ることができます。
 一方、「唐猫」というネコが文献資料にはしばしば出てきます。10世紀初頭の宇多天皇の日記は現在では断片的にしか残っていませんが、その中に、背たけが20センチほどもある黒の唐猫をペットにしていたという記述があります。こうしたブランド・ネコは、経典の輸入とともにもたらされたかとも思われます。そして文化人の高級ペットとして買われ始め、ともにネコをめぐる文化も同時に入ってきたかと思われます。そして中国ですでに定着していたであろう「ネコをめぐる不思議な話」もまたその頃に輸入され、ネコの不思議な生き物イメージと「猫」「狸」の文字の混乱によって「タヌキは化かす」、というイメージができあがったのではないか、と考えることができます(ペルシャネコやシャムネコなどの現代の「唐猫」も、普通のネコとは「生まれが違う」ような顔をしている、という印象がありますよね)。
 少なくとも、10世紀の貴族社会では、不思議な生き物は単なるネコではなく、「唐猫」だという意識が強く存在していたようです。『源氏物語』の少し後に書かれた菅原孝標女(1008?−1059以後)の著書『更級日記』には、「ある日、どこからともなく高級そうなネコがやってきて、作者と作者の姉にかわいがられるようになる。そのネコがある日、姉の枕元に立ち、自分は大納言藤原行成(972-1027 紫式部・清少納言と同世代の貴族、書家として有名で、その娘も能筆家だったが、父より先に逝去している)の娘の生まれ変わりだと告げた。その後の火事でこのネコは死に、翌年には作者の姉も逝去した」という一節があります。
 女三宮や、ひいては光源氏に不幸をもたらす動物が、イヌではなくて「唐猫」というのもじつに象徴的ではあります。大和和紀氏作・漫画『あさきゆめみし』では女三宮の「唐猫」を追い立てて御簾をひきあけるきっかけを作った大きなネコを黒猫としていますが、紫式部のイメージの中にも、ネコを不吉と見るイメージがあったのかもしれません。
 ところが一方、同じネコでも、『枕草子』に見られる一条天皇・藤原定子夫妻のネコは、文字通りネコかわいがりにされていました。生まれた時には左大臣 (藤原道長)、右大臣(藤原顕光)まで参加して産養(うぶやしない:誕生祝の宴)が行われ、馬命婦(紫式部の同僚で、歌人としても知られた馬内侍?)が乳母をおおせつかりました。このできごとは、一言居士の知識人で、王朝貴族の万能記録ともいえる日記『小右記』の著者、藤原実資に「奇っ怪なこと」と書かれてしまいます。さらに天皇の前に出るからと「五位」の位もらって「命婦(貴族身分の女性、の意味)のおもと」と呼ばれ、彼女を追っかけまわしたイヌの「翁丸」は犬島に島流しにされそうになったり、打っ叩かれたりとひどい目にあいます。猫好きには時代を超えて共通するものがあるようです(かかし朝浩作・漫画『暴れん坊少納言』にはこのエピソードを下敷きにした佳品があります)。
 残念ながら斎宮ではネコが飼われていた、という資料はありません。誰か都から連れてきていなかったかにゃあ。

(学芸普及課 課長 榎村寛之)

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