第9話  斎藤さんって誰だ

 先日、尊敬している年長の友人で、広島大学の先生をしている人が本を出しました。下向井龍彦『武士の成長と院政』、講談社発行の『日本の歴史』の第7巻になります。
この人の歴史の掴み方は豪快にして精緻で、例えば奈良時代史を軍拡と軍縮、閉鎖外交と開放外交の変化という切り口から捉えるなんていう大技を、いともたやすくやってしまうその豪腕ぶりには大いに啓発されたものです。少し専門的だけど、荘園・公領・院政などわかりにくいキーワードがいっぱいの十〜十二世紀史を、社会・政治両面からダイナミックに描いている本なので、よければ一度お手に取って見て下さい。
 さて、その中で面白かった話から少し展開して、斎宮に関連した話題に持っていきましょう。
十世紀の始めごろ、藤原利仁という人物がおりました。武人として有名だった人で、「りじん将軍」と通称されています。『今昔物語』に見られる有名な「芋粥」のエピソード(というより、芥川龍之介の小説、といってもわからんか??)で、越前国敦賀に住む裕福な地方豪族として現われるのがこの人です。ともかく後世でも、坂東の藤原氏をはじめ、藤原氏で武士となった一族は、その先祖を、平将門を倒した藤原秀郷か、この藤原利仁に求めるのが普通だった、という位の有名人だったのです。

 ところがこの人の生没年がさっぱりわからない。十世紀はじめの頃に活躍したことしかわからないのです。なぜかって?史料が残っていないからです。
 文書行政が始まった八世紀初頭以来、日本史上で最も史料が少ないのはどの時代か?下向井さんによると、じつはこの十世紀なのだそうです。九世紀には『日本三代実録』までその時代の政府が作った歴史書があります。一方、十世紀終わり頃からは、藤原道長の『御堂関白記』、藤原実資『小右記』などの日記や、『栄華物語』『大鏡』などの物語もあります。

 ところがこの間がすっぽりと抜け落ちていて、断片的な史料しかのこっていないのです。つまり、国家が歴史書を編纂し、何部も作るという事業をやめてから、貴族の日記が公式の記録に准ずるようになり、写本が沢山作られるようになるまでの間は、記録保存の方法が確立されず、火事やら内乱やらで、限られたデータが紛失すればそれっきりになっていたわけなのですね。

 この時代は律令国家から王朝国家への転換期と言われています。九世紀が奈良時代の名残を強く残した、中国風の朝服を着た貴族・官人の男女が漢詩をたしなむ時代だとすれば、十一世紀は、衣冠束帯や十二単の貴族男女が優美に和歌を詠み、武士が京内の警護者として闊歩するという、まさに平安時代というイメージの時代です。この変化を追える史料がほとんど残っていない!。つまり武士も十二単も、気がついたらできていた、という感じがあるのです。

 こういう時期に生きた武人が藤原利仁なのです。だから有名人なのにその人生がよくわからないわけです。
 で、この人が斎宮と何の関係があるかというと、何の関係もありません。

 ただ、この人の息子の一人に、藤原叙用(のぶもち)という人がいて、その人が斎宮頭、つまり斎宮寮の長官になっているのです。そしてこの人が、斎宮の藤原氏、つまり「斎藤」姓を名乗る人々のご先祖様になるのです。
 電話で博物館の説明をする時に、よく「斎藤さんの斎にお宮さんの宮」ということがあります。それほどに「斎」という字はなじみの薄い字です。だからもしも斎藤さんが世の中にいなければ、斎宮の説明は余計に難しくなってしまうわけです。
 だから藤原叙用は、ある意味で斎宮の恩人でもあるわけなのです。
 ところが、お父さんの利仁以上にわからないことが多い。何しろ生きていた時代が悪いせいで、この人についての史料も全く残っていないのです。

 例えば、時々博物館に、叙用はどの斎王の時の寮頭なのですかという問い合わせがあっても、「わからない」のです。何しろ確実な所は系図だけで、生没年も斎宮頭以外の職歴も全くわからない人なのです。
 というわけで全国の斎藤さんごめんなさい。あなた方のルーツはここらしいのですが、それがいつなのかはわかりません。
 ただ、叙用については色々と面白いことがありますので、それについての推測を次回に考えてみたいと思います。

(榎村寛之)

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