第50話  斎宮百話 紫式部は斎王を見たか?

 斎王の登場する有名な古典、といえば『伊勢物語』とともに『源氏物語』があります。『源氏物語』といえば、現代語訳のほかマンガに映画に歌舞伎に宝塚など、いろいろな形で最も広く知られていますから、そこに描かれている斎王像、というのは、当然一般に大きな影響をあたえることになるのです。
 ところが、そこで語られている斎宮や斎王のイメージは、というと…。
  まことや、かの、六条の御息所の御腹の前坊の姫宮、斎宮に居給ひにしかば、大将( 源氏)の御心ばへも、いと頼もしげなきを、(御息所は)「をさなき御有様の後めたさにことづけて、下りやしなまし」と、かねてより思しけり。
(【現代訳】六条御息所の、前皇太子との娘の姫宮が、斎宮であられたので、光源氏も頼みにならないので、「幼い斎王が心配なので、ということにして、伊勢に下ってしまおうかしら」とかねてから思っていた。) (「葵」巻)
 源氏物語において「斎宮」という言葉は、六条御息所(以降六条とする)の、娘(後の秋好中宮、以降秋好とする)ともに伊勢に下ろうかしらという思いとともに唐突に現れ、何の説明もありません。特に説明もいらない程貴族には身近な存在だったということでしょう。しかし、そのイメージとはどのようなものだったでしょうか。 
 まず第一に、斎王は神に等しく、清いものだったと見られていたようです。斎王の秋好中宮に対して源氏が「八洲もる国つ御神」と呼び掛けた歌があり、斎王は清浄でなければならない、という意識が見られます。
 「斎宮の、まだ、本の宮におはしませば、さか木のはばかり(榊が結界されて入れない)にことづけて、(六条は源氏に)心やすくも対面し給はず」(葵)
 「かの御息所は、斎宮は、左衛門の司に入り給ひにければ、いとど、いつくしき御清まり(清浄にして暮らす)に事づけて、きこえも通ひ給はず。」(賢木)
 これらの文は、六条が源氏を避ける口実なのですが、男性が斎王の居所に近づくことで斎王の禊斎生活が乱されるという意識によるものです。
 さらに、葵の巻では、葵の上の喪中の源氏が、
 「斎宮の御清まりも、わづらはしくや(斎宮の清浄も暮らしの支障になるかも)」
と配慮して六条に手紙を出すことをも控える一節があります。ここでは同居している斎王の母に対してさえ、喪中の光源氏が手紙を送ることさえはばかられています。 
 しかし反面、尊貴な存在とされつつも、斎王になるのは、決して祝福されたことではなかったようです。
 秋好が斎王になった時、同時に賀茂神社に仕える斎王(斎院)になった、桐壺院の女三の宮について、父母の嘆きが記されています。               
 「そのころ、斎院もおり居給ひて、后腹の女三の宮、ゐたまひぬ。帝、后、いと、ことに(特別に、大事に)思ひ聞え給へる宮なれば、すぢ異(普通ではない存在)になり給ふを、いと苦しう思したれど、異宮達の、さるべき、おはせず」(葵)                          
 賀茂斎院は都にほど近い紫野に住み、天皇や院と全く会えないわけではないのに、「苦しう」思われています。おそらく、斎宮ならより厳しく見られていたことでしょう。実際、澪漂の巻では、伊勢から帰ってきた六条が、「罪ふかきほとりに年経つるも、いみじうおぼして、尼になり給ひぬ」つまり伊勢の斎宮という「罪ふかき」あたりに長くいたことを大変に思って尼になっているのです。その「罪」とは、六条が出家したことから見て、仏教を近づけず、仏に関わる言葉は忌詞として使うことさえはばかるという斎宮の性格自体を指していたようです。

 そして、斎宮は寂しい所だと思わせる一節もあります。                     
 賢木の巻の有名な一節、
「秋の花、みな衰えつつ、浅茅が原も、かれがれなる虫の音に、松風すごく吹きあはせて、そのこととも、聞きわかれぬ程に、もの(楽器)の音ども、たえだえ聞こえたる、いと艶なり。」 
 は、寂しい野宮と、華やかな六条の女房たちの弾く雅びた楽の音というミスマッチ感覚を描写したものに他なりません。実際に源氏が見た野宮も、
 「物はかなげなる小柴を大垣にて、板屋ども、あたりあたり、いと、かりそめなめり 。黒木の鳥居どもは、さすがに、神々しう見渡されて、わづらはしき気色なるに、神官の者ども、ここかしこに、うちしはぶきて、おのがどち、物うち言ひたるけはひなども、外には、さま変わりて見ゆ」
と、仮設建築のように描かれています。
 こうした「野宮」のイメージは、後々の斎宮はとても寂しい所、というイメージに強く影響を与えていたようです。
 このように、『源氏物語』の斎宮や斎王のイメージはけっして良いものではありませんでした。しかしながらこのイメージには大きな問題があります。
 実は紫式部は建物としての斎宮はもちろん、斎王自体を見たことが無かったのです。
 紫式部は天延9(973)年頃に生まれました。夫、藤原宣孝と死別した後、一条天皇の中宮で藤原道長の娘彰子に仕え、源氏物語を書いたことは広く知られています。源氏物語は未亡人となった長保3年(1001)をさほど下らぬ頃から書き始められ、寛弘5年(1008)に、大納言藤原公任が式部を「若紫」と呼んだという『紫式部日記』の記述などからみて、このころには一応まとまっていたとされます。この間に卜定された斎宮は次の通りです。
 規子内親王 円融朝斎王 村上天皇皇女 天延3(975)年卜定 
 済子女王  花山朝斎王 醍醐天皇皇孫 永観2(984)年卜定 群行せず 
 恭子女王  一条朝斎王 村上天皇皇孫 寛和2(986)年卜定  
 このように紫式部が実際に記憶していたであろう斎王はたった二人、しかも共に女王でだったのです。女王である秋好を斎宮にしても、彼女も読者も何ら不思議に思わなかったことでしょう。そして恭子女王は卜定時にはたったの五才、寛弘7年(1010)まで25年も斎宮にいたのです。つまり彼女は適齢期少し前の少女の斎宮を実際には見ていなかったわけです。秋好は、おそらくそれ以前の記録や人々の記憶などの情報を元に、式部によって創作された斎王なのでしょう。
 よく言われるように、斎宮女御徽子女王の印象が六条や秋好に投影されているのはおそらく事実でしょう。しかし紫式部が『源氏物語』を書き、宮廷に仕えていた頃、多くの宮廷人は、斎王も斎宮も、野宮さえも見たことがなかったのです。
 つまりは、平安貴族だから斎宮のことはよく知っている、とはとても言えない、ということなのです。
※ 今回は1992年に実施した『王朝文化の美 源氏物語の世界』の図録に掲載した「『源氏物語』に見る斎宮―十一世紀貴族の斎王観―」をもとにしています。この図録がすでに絶版になっていますので、今回その主要部分をリライトして掲載しました。

(主査兼学芸員 榎村寛之)

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