第27話  群行の道をドライブすると

 先日、京都から斎宮までの道を車で走るという機会がありました。今までも走ったことは何度もあったのですが、一日かけてじっくり走ってみたのは初めての試みです。
 まず、京都からは五条大橋を経て山科越えに向かい、国道1号線で蝉丸神社の前を通ります。このあたりは切通しがつづき、鎌倉を思わせる要害で、逢坂の関が置かれたのもごもっとも、という感じです。
 そのまま一気に下って瀬田の唐橋へ。ここでは七世紀〜八世紀の瀬田橋の跡が発掘されており、今の橋が当時から50メートル位しか離れていないことがわかっています。ここから見る琵琶湖はきれいなのだけど、車が多いので何とも落ち着きません。橋の側の建部大社は、近江国府域の西南に隣接していたと見られる古社で、斎王一行もその前を通ったはずの所、江戸時代の再建ながらなかなか風格のある本殿や拝殿があります。そして今度は勢多頓宮のあった近江国府へ。ここでは国庁域が整備されているはず…、と思ったら、正庁の建物を復元している真っ最中で、あちこち工事中の立入禁止で、風情がないことおびただしい。しかたがないからそそくさと出発。
 今度は湖東平野から野洲川に沿って東へと、国道1号線の平坦な道を進んでいきます。今年は渇水で、野洲川の水はどうかと心配したのですが、やや少ない程度のよう。古代の東海道が野洲川を渡ったあたりに甲賀頓宮があったはずなのですが、中途半端に都会化しており、その推定地と見られる石部周辺にある「斎姫神社」という小さい神社を探そうとしたのですが、結局わからずじまい。そのあたりで野洲川を渡り、対岸の道を行きましたが、これという収穫もなし。やがて国道1号線にふたたび合流して、垂水頓宮へ。
 垂水頓宮跡は、小さな森の中に小さな広場があり、記念碑や神宮遥拝のためのほこらがある所。内田康夫の浅見光彦シリーズ『斎王の葬列』の舞台となったことでも知られ、史跡指定されている伝承地ですが、それとわかるものは碑以外にはありません。以前、土山町が大学に委託して歴史地理学的に調査したら、頓宮跡地の可能性はここより野洲川原周辺の可能性が高いとか。斎王の森と斎宮の遺跡の関係から見ても、伝承地がそのまま中心地とは限らないので、その可能性もあるな、と思いつつ、いよいよ鈴鹿へ。
 滋賀県側から鈴鹿峠に向かう国道1号線はほとんど直線道路。かつて藤原資房が斎王良子内親王の群行に同行した時に記した『春記』にある、峻険極まりなし、という雰囲気ではありません。しかし鈴鹿トンネルを出た所の広場から降りた東海自然歩道の雰囲気はたしかに昼なお暗き、厳しい山道の雰囲気が残っています。

鈴鹿峠の古道

鈴鹿峠の古道

 鈴鹿峠を越えて伊勢に下る道は、今の国道でもヘアピンカーブの連続。『春記』の記載では、鈴鹿峠の頂上位で、近江国司がたくましい牛を連れて帰ってしまい、日が暮れていく中、坂道を下っていき、山を出た時はとっぷりと日が暮れていた、といいます。この道を日暮れに下るのは大変だぜ、と言いながら関へ。鈴鹿頓宮推定地は国道一号線が鈴鹿川を越えてすぐくらいの所。斎王はここで禊をして頓宮に入ったのかな、と言いつつ伊勢平野へ。
 といっても、伊勢平野は多く過去の景観を失って、時間もないので、ここからは伊勢自動車道に乗って一気に斎宮へ。途中櫛田川の川原で古代さながらの美しい景観を見つけ、西の山々に沈む夕陽の美しさに魅せられて、一日の旅は終わったのでした。

櫛田川の夕陽

櫛田川の夕陽

(主査兼学芸員 榎村寛之)

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